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レヴィナス・コレクションから:レヴィナスのフッサール論


ちくま学芸文庫から出ているレヴィナス・コレクションは、1929年から1968年にかけてレヴィナスが発表した比較的短い文章を集めたものだが、それぞれがレヴィナスの問題意識の対象となったことがらを主題的に論じており、しかもコンパクトでわかりやすい文章なので、難解なレヴィナスの思想を理解するうえで、大いに助けられる。レヴィナスが現象学の研究からスタートしたことはよく知られているが、このコレクションはレヴィナスのフッサール論を冒頭に置いている。以後、他者とか死とか時間とか存在にかかわるレヴィナス固有の問題領域が次々と取り上げられる。それらを読むことで、読者はレヴィナスの思考を追体験できるだろう。

レヴィナスはフッサールに私淑して現象学を研究することから哲学者としてのキャリアを始めた。「エトムント・フッサール氏の『諸構想』について」と題する文章は1929年(フッサールに出会った翌年)に書かれたもので、フランスの読者に向けて現象学の意義についてガイダンス風に説明したものだが、これを読むと、レヴィナスが現象学にかなり入れ込んでいることがわかる。レヴィナスは生涯を通じて現象学者であったとは思えず、「全体性と無限」などは現象学というより、レヴィナスにしか書けぬ特異な書物というほかはないのだが、この論文の著者としてのレヴィナスは、完全に現象学の徒として見える。

この文章は、表題にあるとおりフッサールの「イデーン」についての解説である。しかもかなり忠実な解説で、現著作の目次に沿うような形で、いわば逐条的な説明を行っている。「イデーン」の意義は、意識の志向性としてのノエマ・ノエシス関係の構造を徹底的に解明したことにあるわけだが、レヴィナスはこれについて解説する一方、意識にとっての自明性の根拠をなす直観の重要性を強調する。フッサールの哲学史上の功績は、直感の内実を解明したことにあるとレヴィナスは考えているようである。

経験論の伝統にあっては、直観とは感性的な所与であって、あくまでも感覚として与えられるものであった。この感覚を所与として、それに知性が働きかけ、構成することで、さまざまな形相的な概念がもたらされる。これが伝統的な経験論の考え方であり、カントもその立場に立っている。ところがフッサールは、直観とは感性的な対象のみならず、形相的な観念についても成立すると主張した。フッサールにとっては形相的な観念も直観の対象なのだ。そうレヴィナスは理解するわけである。

フッサールの理解としては、エポケーとか現象学的還元とか、意識の志向性とかが中心的な問題領域となり、直観については付随的に取り扱われることが多かったのだが、レヴィナスは、この直観をこそフッサールの中核的な問題領域として捉える。しかし、直観を形相的な対象にまで広げて考えることには強い異論がある。フッサール自身はこの直観の問題についてあまり深く掘り下げることはなかったと思うのだが、レヴィナスはそれをフッサールの中核的な問題意識というわけであるから、フッサール以上に熱心に、直観の構造を明らかにしなければならない。

1931年に書いた文章「フライブルグ・フッサール・現象学」においてレヴィナスは、カントなら主観の側のアプリオリと考えたカテゴリーを、対象そのものに属するものであり、我々はそれを直観によってとらえるといって、この問題をレヴィナスなりに掘り下げている。かれは次のようにいうのだ。「空間や時間や因果性とは別に、『日常的』、『美的』、『聖なる』等々の概念の客観性が確証される。これらの特徴は対象に帰属したものとして与えられるのだが、現象学者たちはそこに、諸事物についてのわれわれの認識の『純粋に主観的な』規定を見るのではなく、事物そのものを構成するカテゴリーを見ている」(合田正人訳、以下同じ)。そのカテゴリーは無論形相的なものだが、それは「純粋に主観的な」規定ではなく、対象に帰属する客観的な規定であり、したがってわれわれはそれを直観することができるというわけである。

このあとのほうの文章のなかでは、レヴィナスは、現象学で言う志向の対象が、知的な対象、つまり観想的な対象にとどまらず、感性的な対象にも当てはまるといっている。レヴィナスはいう、「彼ら(現象学者)の根本的な考えは、感情によって実現される世界との連関の独自性を肯定し、それを尊重することにある。ただ、かれらが頑なに主張しているのは、感情もまた連関であり、それ自体で感情は『何かに至ろうと欲しており』、それ自体で、われわれ自身に対するわれわれの超越を、世界へのわれわれの内属をなしているという点である。結局のところ、現象学者たちは、世界そのもの~客観的世界~は観照的対象をモデルとして造られているのではなく、それよりもはるかに豊かな諸構造によって構成されており、これらの志向的感覚だけがそれを把持できると主張しているのである」

意識の志向の対象を知的で観想的なものにとどめず、ひろく人間の身体感覚全般に広げて理解しようとする姿勢は、後にメルロ=ポンティによって精力的に展開されるわけだが、レヴィナスのこの議論は、それを先取りしているところがある。もっともレヴィナス自身は、これをスローガン的にぶちあげたにとどまり、本格的に展開してみせることはなかったのだが。



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