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レヴィナスとヒトラー


レヴィナスは一ユダヤ人として、ヒトラーにひどい目にあわされたわけだが、自分のそうした運命を予感するかのように、比較的早い時期からヒトラーの危険性を認知していたようだ。1934年に書いた小論「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」は、レヴィナスのそうした予見を表明したものだ。1934年といえばヒトラーがドイツで政権を奪取した直後であり、その政治的な存在感が圧倒性を増しつつあった時期である。ユダヤ人に対する攻撃はまだ本格化してはいなかったが、人種差別的な政策は公然のものとなっていた。その人種差別主義にレヴィナスは、ヒトラーのきな臭い意図を嗅ぎつけたことだろう。

この小論でレヴィナスがヒトラー主義哲学と呼ぶものは、自由主義への敵対と血に基づく団結を主張する思想である。そのヒトラー主義哲学の今日的意義について、レヴィナスは小論の冒頭で次のようにいっている。「ヒトラーの哲学は稚拙である。けれども、そこでは多大な始原の潜在力が消費されていて、その圧力のもとで、見すぼらしい空説虚言の殻は炸裂してしまう。そうした潜在力がドイツの魂の秘められた郷愁を目覚めさせる。伝染病とか狂気とかであるより以上に、ヒトラー主義は基礎的な諸感情の覚醒なのである」(合田正人訳、以下同じ)

この基礎的諸感情とは、それなりの哲学をもっており、「現実の総体に直面し、自分固有の運命を目の当たりにしたときに、魂が最初にとる態度を表わしている。基礎的感情は、魂が世界のなかでこれからなすであろう冒険の意味を予め決定し、予め描いているのである」。このように言うことでレヴィナスは、ヒトラー主義が動員する基礎的諸感情の、情念的で反合理的な本質をあばきだそうというわけであろう。ヒトラー主義の特徴をレヴィナスは、「論理的に矛盾しているか否かは、具体的な出来事を裁く基準とはならない」という点に見ており、その徹底した非合理性、反理性主義を批判するのである。

そのヒトラー主義が具体的にとる思想的スタンスは自由主義への敵対だとレヴィナスは考える。この自由主義とは、キリスト教的なヨーロッパ世界の伝統であって、精神の絶対的な自由を尊重する立場である。

レヴィナスは言う。「ヨーロッパ文明にとっては、自由とは人間の運命に関するひとつの考え方を意味している。人間の運命とは、人間に行動を促す世界ならびにその諸可能性を前にした人間の絶対的自由の感情である,というのだ。<宇宙>を前にして、人間は永遠に自己を刷新しつづける。極言すれば、人間は歴史をもたないのである・・・一切の固着に対するこの無限の自由。それによって、結局のところいかなる固着も既決的なものではなくなるのだが、キリスト教的な霊魂観の根底には、このような無限の自由が存している」

こうした自由の観念に、ヒトラー主義は徹底して敵対する。自由の現実的な担い手は、キリスト教的世界観においては精神あるいは霊魂であったが、その精神あるいは霊魂は身体から独立したものだった。ヒトラー主義はそうは考えない。精神と身体とはよそよそしく分離・対立するものではなく、不可分に一体化されたものなのだ。精神は身体によって繋縛されているのである。こういう考え方にあっては、「自我と身体との一切の二元論は消失してしまう。肉体的苦痛の袋小路にあって、病人は、すこしでも楽な姿勢を求めて寝返りを打ちつつ、己が存在の分割不能な単一性を感得しているのではなかろうか」

したがって、「人間の本質はもはや自由のうちにはなく、一種の繋縛性のうちにある」ということになる。「真に自己自身であること、それは<自我>の自由とはつねに無縁な数々の偶発事の上空を改めて飛翔することではなく、逆に、身体に固有の繋縛、回避不能なこの根源的繋縛を自覚することである。いや、何よりそれはこの繋縛を受け入れることなのだ」

身体による繋縛をもっとも純粋な形であらわすのは血である。つまり民族性である。われわれすべての人間は、身体とは無縁な精神としてあらゆる繋縛性から自由であるのではなく、まず民族の一員として、地によるつながりという繋縛性に縛られている。それゆえ、「血の共通性に立脚することのない精神同士の合理的な集まりや神秘的な合一はいずれも胡散臭いものとみなされ」る。

こういう考えをレヴィナスは「ゲルマン的理想像」と呼んでいる。血のつながりをなによりも大事にし、自分を空疎な精神としてではなく、ゲルマンの血を分け持った身体としてとらえようとする考え方である。そこにレヴィナスは、ヒトラー主義の人種差別的な偏見の蔓延をみて、その偏見がやがてユダヤ人に向けられる危険を察知したのだと思う。

面白いことにレヴィナスは、ヨーロッパの思想的伝統である精神の自由の絶対性に異議を唱えたのはヒトラー主義が最初ではなく、マルクス主義がすでに異議を唱えていたとする。マルクス主義は、「存在が意識を決定する」といって、精神が身体に繋縛されていることに着目した。そのうえで、人間が本当の自由を実現するためには、精神の活動をあてにするだけではなく、身体がそこで活動している物理的世界を変革しなければならぬといったわけだ。だが、マルクス主義は、自由主義と完全に断絶したわけではないともレヴィナスは言って、その過渡的な性格に注意を促している。

マルクス主義が遠慮した自由主義への配慮を、ヒトラーは完全にかなぐり捨てて、自由主義に公然と敵対するにいたった。その敵対姿勢は人種差別主義となって、現実の政治空間において、巨大な運動に発展しつつある。その勢いにレヴィナスは、さしせまった恐怖を感じたはずである。この小論からは、レヴィナスのそのような恐怖が伝わってくるのである。




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