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レヴィナスのスピノザ論


スピノザには、バルフとベネディクトスという二つの名前がある。ということは、スピノザには二つの人格があるともいえる。あるいはスピノザの人格は二つに分裂しているとも。本人がこんな具合だから、レヴィナスのスピノザを見る目も分裂せざるを得ないようだ。レヴィナスはスピノザについていくつかの言及をしているが、それらを読むと、スピノザについてのレヴィナスの屈折した感情が伝わって来る。その屈折した感情を、「レヴィナスコレクション(ちくま学芸文庫)」に収められた三つの小論をもとに論考してみたい。

「スピノザ、中世の哲学者」と題する小文は、中世ユダヤ思想に関するウォルフソンの著作への書評であるが、そのなかでスピノザについてのウォルフソンの批評を援用して賛意を表している。「スピノザはベネディクトスとバルフの二重の戯れを秘めている、というのだ。前者は、数々の定義と公理と定理を通じて自己を主張し、その論議を見事な仕方で幾何学的方法に適合させている。後者のほうは小心で、寡黙で、伝統的哲学の素養を捨てることができず、先人たちが踏み固めた、ラビとスコラ哲学の推論の小径を辿り、体系の建造物の背後に身を隠しては時折、系の通気口から姿を現す」(合田正人訳、以下同じ)

ウォルフソンが重視するのはバルフとしてのスピノザだが、レヴィナスは必ずしもそうは思わないようだ。レヴィナスはたしかに、西洋哲学の伝統に偉大な思想を付け加えたといえるが、しかしユダヤ人としては失格だったのではないか。レヴィナスは一ユダヤ人として、ユダヤ人の先輩たるスピノザに、ユダヤ教の真理の伝道者たることを期待したいようなのだが、スピノザはその期待に十分応えていないと考えているようなのである。

「スピノザの事例」と題する小論のなかでレヴィナスは、スピノザが反ユダヤ的な影響を及ぼしたと非難している。レヴィナスはさらにヤーコブ・ゴルディンの次のような意見に賛成だといっている。「スピノザの裏切りが存在するという意見に。思想史のなかで、スピノザはユダヤ教の真理を新約の啓示に従属させてしまったのだ」

レヴィナスはまた、「スピノザに後援されることで、キリスト教は隠密裏に勝利した」ともいって、ユダヤ教のキリスト教への敗北の責任をスピノザに負わせている。しかしユダヤ教はキリスト教に敗北したのだろうか。その肝心なことについての事実確認を、レヴィナスはしていない。ただ、もしもユダヤ教徒がキリスト教に改宗するようなことがあれば、それにはスピノザの悪い影響が働いていると匂わせているにすぎない。その結果「イスラエルびとたる西洋知識人たちの内奥の思考はキリスト教の雰囲気にどっぷり浸かって」しまうというわけである。

「あなたはバルフを読み直したか」と題する小文は、シルヴァン・ザックのスピノザ論への書評であるが、そのなかでレヴィナスは、スピノザのユダヤ教理解が狭隘なものであることを強調しながら、ユダヤ教はスピノザが理解できないほど深遠な真理を語っているといっている。その深遠な真理は、タルムードを通じて語られるのであるが、スピノザはタルムードの真の意味を知らなかったに違いない、それなのにスピノザはタルムードを「単なる人間の捏造物」といって貶めた。これは見逃せないことだ、そうレヴィナスはいって、スピノザを厳しく批判するのである。

スピノザは、テクストの隠れた意味を導出する前に、その正確な意味を見定めようとした。それにあたってスピノザのとった姿勢は、「テクストの真理を論証するには、それを現実と一致させねばならない。が、テクストの意味を理解するためには、テクストをテクストそれ自体と一致させれば足りる」という考え方だ。しかしこれは、理性にかかわる事柄についてだけ当てはまることで、信仰にはあてはまらない。信仰の真理は、言葉ではなく行為にかかわるものだからだ。ところがスピノザは、信仰を理性に従属させようとする。そこがもっともスピノザのいけないところだ。

このあたりのことをレヴィナスは、ザックの言葉を引用しながら次のように言っている。信仰は神への「服従であって、認識ではない・・・服従の動機は理性的な秩序には属してはいない。その動機は、恐れや希望や忠誠心や敬意や崇敬や愛といった、情緒の秩序に属する動機なのだ・・・宗教的情熱は行為によって表されるのであって、たんに言葉によって表されるのでは決してない」

ところがスピノザのしたことは、宗教的な感情を理性的な思考に従属させることだ。それゆえ「スピノザ主義は、絶対的思考が同時に絶対的宗教たらんとした、そのような哲学の一つの先駆であることになろう」

スピノザが先駆となった「絶対的思考が絶対的宗教たらんとした哲学」とは、おそらくヘーゲルの哲学をさすのであろう。ヘーゲルの哲学は、キリスト教的な世界観をもっとも壮大な形で展開したものとされるが、その最もキリスト教的な哲学の先駆であるとは、どういうことなのか。レヴィナスがスピノザに向って提起している疑問は、なぜあなたはユダヤ人であることを裏切ったのか、という疑問であったように思える。

この小論を実質的に結ぶ言葉は次のようなものだ。「正義にまつわる聖書の数々の命令はもはや、幾何学的な仕方で伝達された叡智によって、絶対的な表現と文脈を復元されるような至上の幼児語ではない」。この言葉によってレヴィナスが言いたかったことは、信仰と理性的認識とは、おのおの独自の領域を持つべきで、どちらかが他方を従属させるべき筋合いのものではないということのようだ。




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