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根源的な知:レヴィナス「存在論は根源的か」


「存在論は根源的か」と題するレヴィナスの小論(1951)は、根源的な知とはなにかをめぐる議論である。「この根源的な知を欠くとき、哲学的、科学的認識ばかりか日常的認識を含む、ありとあらゆる認識が幼稚なものになってしまう」(合田正人訳、以下同じ)とレヴィナスは言う。その根源的な知とは、哲学の伝統にあっては、存在論であった。存在論とは、存在者が存在しているという事実の了解を含むもので、その存在の事実はこのうえもなく明証的な事実と考えられる。こうした存在についての根源的な知は、人をして哲学の源泉に遡らしむ。

こうした根源的な知が、哲学にとってあらためて強調されなければならなかったのは、長い間それが忘却されてきたからだ、というのがレヴィナスの主張のようである。哲学は、ギリシャ人たちが探し当てた源泉である存在についての明証的な知を軽視して、人間の認識という狭い範囲に自分を閉じ込めて来た。存在論が認識論に従属してきたのだ。その従属を断ち切って、存在についての根源的な知を復権させたのがハイデガーだった。ハイデガーは、デカルトの立場を逆転させて、認識から存在を導くのではなく、存在から認識を導いた。私が考えるから私があるのではなく、私があるから私は考えることができると、言ったわけだ。これはごく常識的な見方と思えるのだが、その常識的な見方が、哲学の長い歴史のうえで失われて来た。

ハイデガーの哲学は、存在の了解の上に基礎づけられている。私は私が存在することを含めて、あらゆる存在者の存在を、明証的に了解している。この了解があるからこそ、私は私自身と私がそこで生きている世界について、あれこれ思考を巡らすことができる。私が考えるのは、私が存在者として存在していることの、あらわれのようなものなのだ。存在者は、自らの存在を開示する。真理とは、存在者が自らの存在を隠れなく示すことのうちから現われて来る。このようにハイデガーは考えたのである。

レヴィナスは、そうしたハイデガーの考えを高く評価する。ハイデガーこそが、存在論を復権させ、哲学をその源泉に連れ戻した功労者だというわけである。だが、ハイデガーが復権したのは、存在者の存在であって、その意味では、プラトン的なイデアに近いようなものだった。ハイデガーの存在者は、それ自体として存在するのではない。存在者が存在するのは、存在の一範例としてである。個別は普遍というヴェールを通じて浮かび上がって来ることができる。普遍と切り離されたむき出しの個別的存在者というものはありえない。

その意味でも、ハイデガーは存在を探求する存在論者ということができる。しかし、ハイデガーのこのような存在論によっては、解明できないものがある。他者の問題である。他者は、存在了解された、存在の一つの例などではない。他者は存在とはいちおう切り離された存在者そのものである。普遍を超越した個別者、それが他者である。この他者の問題を正しく捉えないと、根源的な知に達することは出来ない。何故なら人間は、孤立した意識として孤独に生きているわけではなく、この世界のうちにあって、他者と関係を取り結びながら生きているからである。人間は社会的な生き物なのだ。

他者としての人間は、了解の対象ではない。了解とは、ハイデガー的な意味では、「特殊な事物を超えたところに身を置くことなのだ。そもそも認識は普遍的なものの認識以外の何物でもなく、了解とは、そのような認識によって、唯一存在するものたる特殊な事物と係ることなのである」。ところが他者は、「たとえ普遍的な存在を具現していようとも、私はこの普遍的な存在を無視し、そうすることで、特殊な存在者としての彼とのみ係る」ような存在者なのである。ここでは、「『ある存在と関係するに先立って、私はこの存在を存在として了解しなければならない』という命題は、厳密にいうと、その妥当性を失ってしまう」

レヴィナスはさらにいう。「了解は、存在の開けをとおして存在と係りつつ、存在を起点として存在者の意味を見いだす。了解は存在者に請願するのではなく、たんに存在者を名付けるにすぎない。このようにして了解は存在者に暴力をふるい、存在者を否定する。暴力とは部分否定である。存在が消滅することなく私の支配下に入るという事態によって、否定のこの部分性は記述される。暴力という部分否定は、存在者の自存性を否定する。つまり存在者は私の所有物となるのだ」

そのような存在者は単なる事物というべきである。「事物がたんなる事物であるのは、事物との関係が了解として確立されるから」なのだが、他者はこのような意味の事物ではない。

だが、ハイデガーの存在論にあっては、他者は事物と区別されない。それは、ハイデガーが存在論を私の存在(実存)から始めているからであり、あらゆる事物を私の存在によって基礎づけているからである。しかし他者は、私の存在を超えたところから、私に向って到来する。他者は、その存立を私の存在に負ってはいないのだ。そこを認識することが、レヴィナスによれば、言葉の本源的な意味での本源的な知なのである。

この小論のまとめとして、レヴィナスは次のように言っている。「哲学的探求は自己や実存に関する省察に甘んじてはならない。こうした省察がわれわれに明かすのは、個人的実存の物語、孤独な魂の物語でしかない。たとえ自分から逃げるかに見えても、孤独な魂はたえず自分自身に回帰してしまう。権力ならざる関係に対してのみ、人間的なものは姿を現すのである」

こうしてみると、レヴィナスの言う根源的な知とは、私と他者との関係についての知ということになる。この関係のうちから、あらゆる存在者の存在が、その場所を得た形で浮かび上がってくるというわけである。




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