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サルトルの無


サルトルの言う「無」とは、要するに意識のことである。何故意識が無と同義になるのか。その理屈はわかりにくい。サルトルは基本的には意識絶対主義者であり、意識こそが存在を基礎づけるという考えに立っている。デカルトは「我思うゆえに我あり」と言って、とりあえず意識が自己の存在の根拠となるとしたうえで、意識の対象である物質的世界も意識によって基礎づけられるとした。デカルトは、精神と物質との二元論を主張したというのが、哲学史の常識であるが、その二つの実体としての精神と物質がいずれも意識によって根拠づけられている点では、意識一元論といってよい。それを唯心論と呼ぶかどうかは、趣味の問題に過ぎない。

サルトルも意識が存在を基礎づけるとする点では、デカルトと同じである。つまり意識は存在の根拠であるとされる。その存在にとって根拠となるものが、何故無と同義なのか。無は、哲学の常識では、存在の反対概念である。通常は非存在と無とは同義の言葉として使われる。仏教には、非存在と無とはカテゴリーを異にするという考え方もあるが、西洋哲学の伝統においては、非存在と無とは基本的に同じカテゴリーの概念である。その非存在と同義である無がなぜ、存在の根拠となるのか。

西洋哲学の伝統では、無はあくまでも存在の否定である。だから、無が存在を生むことはあり得ない。無を空間的な概念として考えた場合には、なにもない空間としての無を、存在が充満するという言い方はあるかもしれない。しかしそうした意味での無は、存在の容れ物ではあっても、存在の根拠とはいえない。

ここまでの議論でも、存在と無との関係についてのサルトルの議論にはわかりにくいところがある。その分かりにくさをサルトルは、丁寧に説明しようとはしない。むしろ、無が存在を生み出すことを自明の前提としている。それはサルトルが、無を意識と同一視していることからくる。意識はそれ自体としての外見の上では、つまり無との関連を離れてみた場合には、デカルトのいうように、存在の根拠という規定性を付与することができる。意識は存在の根拠なのだから、その意識が無と同意義の言葉ならば、無が存在の根拠となるとも言えるわけである。しかし、そういう言い方は、論点先取りの疑念を払いきれない。

意識が存在の根拠であるという考えは珍しいものではなく、デカルト以降西洋哲学の主流的な考え方でもあった。だからそのことの是非について、ここでとりあげる必要はないだろう。問題は、サルトルがその意識を無と同一視したことだ。なぜ、またどんな根拠から、意識を無と同一視したのか。

それを考えるためには、意識についてのサルトル独自の捉え方をよく理解する必要がある。サルトルは意識の即自性と対自性を区別する。即自的な意識とは、意識そのもののことである。デカルトの言葉でいえば、思うという活動の担い手としての意識である。それは実体としての精神ということになる。サルトルの言う即自存在としての意識とはだから、デカルトの言うところの実体としての精神と同じだいうことになる。サルトルはデカルトにならって精神の実体性を認めるのである。だが精神は即自としてはなんらの活動もできない。精神が活動するのは、精神が自己を対象化する時である。精神が対象化するのは自己のみではない。あらゆるものを対象化する。その対象化する自己をサルトルは対自というのである。

対自の活動は、意識の内容そのものである。フッサールはこの意識の内容そのものを絶対的な与件として捉え、その背後に意識の実体のようなものを認めなかった。現象としての意識が意識のすべてであるとする。現象一元論と呼ばれる所以である。現象一元論の立場からは、意識の実体というような概念は余計なものになるし、また、対象の背後に実体を求める必要もなくなる。現象をそのあるがままに記述すればよい。ところがサルトルのように、意識の現象の背後に意識の担い手としての実体=即自を仮定すると、その即自と現象としての対自とを区別する必要が出てくる。意識は即自としては無内容である。意識が具体的な内容を持つのは、対自としてである。つまり対自としての意識は、即自としての意識を超越しなければならない。この超越をサルトルは、「人間は、彼があらぬところのものであり、彼があるところのものであらぬ」(松浪信三郎訳)と言っている。

超越は、即自としての自己を否定することであるから、即自を存在と捉えれば、存在の否定である。存在の否定とは、無にほかならない。そういう理屈からサルトルは、意識は無であると断定するのである。

こうしたサルトルの議論が、意識を即自と対自とに分裂させて考えるところから発していることは明かである。意識をそのように分裂させることで、その両者を合理的に関連付ける必要が生じる。その関連付けは、即自の否定つまり無化によって対自が現前するという言い方でなされる。対自は即自を無化しながら、かつ存在を根拠づける。即自の無化とはだから、存在のための前提なのである。

こういうまどろっこしい言い方になるのは、サルトルがあまりにも素朴な意識論に囚われているためだ。意識を(即自と対自の)二つに分裂させて考えるから、こういうことにならざるをえない。フッサールのように、意識を単純なものとしてみれば、こんなことにはならない、フッサールの意識は、ノエマとノエシスとに分解されたが、ノエマとは意識の対象であり、ノエシスとはその対象についての意識そのものである。その意識そのものには、さらに分割すべき下位の要素はない。だから、意識をそのあるがままに分析すればよいのであって、意識をその担い手と区別する必要はない。要するにサルトルは、意識の捉え方においては、フッサールよりデカルトの立場に遡ったわけで、意識をあまりにも複雑に考えすぎたのである。かれが意識の自由にあまりにも拘る姿勢も、意識を実体化するところから出ている。自由は自由な主体を前提としている。自由な主体とは、実体としての意識にならざるを得ない。実体とは、自己自身に存在の根拠をもつような存在をさしていう。サルトルの意識は絶対的な存在なのである。




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