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対自存在:サルトル「存在と無」


サルトルの存在論は意識に定位した議論であるが、その議論の中核をなすのは、意識の即自存在と対自存在という一対の概念である。この概念セットをサルトルがヘーゲルから受け継いだのは間違いない。しかし、その使い方はかなり異なっている。ヘーゲルは、即自と対自との対立を、認識の弁証的発展過程の段階と見たのに対して、サルトルはそれを存在の様相のようなものとしてみた。ここでサルトルが存在という言葉で扱う対象は、意識である。その意識に、即自存在と対自存在の対立があると考えるわけである。

ヘーゲルの場合には、即自と対自の対立は、意識の介入によってもたらされる。意識による反省の働きが、即自存在から対自存在への転換をもたらすと考えるのである。即自としての意識は、反省以前のものであって、それ自身のうちに対立や分裂を抱えていない。いわばそれ自体のうちに安住している。そこに反省が加わると、意識は意識にとっての対象的な働きという様相を呈する。対象的な働きとしての意識は、その内部に対立や分裂を含んでいる。意識は自己自身に安住することができないで、つまり肯定的にあることができないで、否定の契機を含みこむようになる。その否定が弁証法的な変化の論理をもたらす、というふうな結構になっている。

サルトルは、意識をめぐる議論に、ヘーゲル的な弁証法の要素は持ち込まない。そのかわりサルトルが持ち込むのはフッサール流の現象学の方法である。フッサールの現象学は、「意識は何ものかについての意識である」という標語で特徴づけることができる。その何ものかについての意識という意識の性格を、サルトルは最大限活用するのである。意識はそれ自体としてはなにものでもない。即自としての意識は意識の自己自身との一致という状態にある。そういう状態の意識は、それ自体としては空虚である。意識が存在によって満たされるのは、対自としてである。

そこで対自とは何ぞやということが改めて問題になる。対自をサルトルはとりあえず「自己への現前」と定義している。「自己への現前」とは、自己が自己へと現前するというのがそもそもの意味内容である。自己が自己の前に現れるところから、その現れたものを対自存在というわけである。だが、対自存在を満たすものは自己自身にかぎらない。フッサールが「なにものかについての意識」と呼んだ、その意識にとってのなにものかが、対自存在にとっての対象である。つまり対自存在とは、分かりやすい言葉でいえば、対象の認識過程ということになる。対象の認識過程をサルトルは「対自存在」というヘーゲル由来の言葉で表現したわけである。

ここでサルトルの議論は飛躍する。サルトルは対自存在としての意識の特徴を、カント流に所与としてとらえるのではなく、自己の存在の穴を埋めるものとして捉える。対象は単に認識されるべきものにはとどまらず、いわば自己が自己を実現するためのきっかけのような意味を持たされる。意識は対象を受け身にとらえるのではなく、むしろ自分のほうから積極的にかかわるべき存在として位置付ける。対象が自己の自己実現に寄与するのは、対象が自己に欠けたものをもっているからである。というのも、意識はそれ自体としては、つまり即自存在としては、無内容で空虚である。対象を受け入れることによって始めて充実できる。その場合対象的な存在は、意識にとって本来欠けているものである。その欠けているものを同化することによって、意識は充実した存在となることができる。

そのことをサルトルは、意識とは「それがそれであらぬところのものであり、それであるところのものであらぬ」(松浪信三郎訳)と言っている。つまり意識はそれ自体としては空虚であって、本来自己でないものを自己のうちに取り入れることで意識として働くことができると言っているわけである。

こうした表現は、サルトル一流のものであって、フッサールなら「意識とはなにものかについての意識である」と簡潔に表現するところだ。なにものかとして現れる対象を持たないでは、意識がまったく無内容な空虚に過ぎないとは、すでにカントが強調していたところである。

ともあれ意識が対象に向かって働きかける作用をサルトルは「意識の超越」といっている。超越とは大袈裟な言葉だが、要するに自己の閉じこもっている殻から抜け出て、対象的なものへと向かっていく作用を意味しているわけだ。意識がこのように外的な対象に向かうには必然的な理由がある。意識はそれ自体としては空虚である。それをサルトルは存在欠如といっている。意識はしかし存在することを本質としている。なぜなら意識はあくまでも偶然的なものであって、それが存在しているというのは事実上の問題なのだ。したがって意識は、定義上存在しなければならない。だが意識はそれ自体としては空虚であった。その空虚を満たすという衝動が、サルトルによって「存在欠如」を埋める衝動としての「欲望」と名付けられる。欲望とはサルトルにとって、きわめて存在論的な概念なのである。




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