知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学プロフィール 掲示板


対他存在:サルトル「存在と無」


「存在と無」におけるサルトルの対他存在論は、サルトルなりの他者論である。サルトルはそれを、ヘーゲルの他者論から導き出している。ほとんどヘーゲルの精神現象学における自己と他者の相克の議論の焼き直しといってよい。ヘーゲルはその相克関係を、主人と奴隷の関係で代表させたが、サルトルもまた同じような議論を展開している。

まず、対他存在という言葉の意味を明かにする必要がある。対他の他とは、他者のことをさす。だから対他存在とは、わたしの他者にとって(対して)の存在のあり方ということになる。そこで他者とはなにかが問題になる。意識の絶対性を前提とするサルトルの原理的な立場にとって、すべての対象的なものは、意識にその根拠を持つ。だから、意識の対象としての他者も当然、わたしの意識にその根拠をもつはずである。ところがサルトルは、私の意識から独立した存在としての他者を想定する。そのうえで、私と他者との間の相克的な関係について議論を展開するのである。

わたしの意識の対象としての他者は無論存在する。そうした意味合いでの他者をサルトルは、対象=他者と呼んでいる。わたしの意識の対象としての他者である。そうした意味合いの他者はあくまでも私の意識の相関物であって、その存在の根拠というか責任はわたしにある。しかし他者の存在はそれに尽きるものではない。私の意識から完全に独立し、時にはわたしを対象化するような他者のあり方もある。そういう意味での他者をサルトルは主観=他者と呼んでいる。主観=他者にとってわたしは、わたしにとって他者が単なる対象であるのと同じような意味で、わたしを対象とすることができる。他者にとって単なる対象に過ぎなくなったわたしは、もはや対自存在ではなく、即自存在に引き下げられてしまう。他者の前でわたしはものと化すのである。

なぜ、そういうことが起きるのか。わたしが通常対象を認識するのは、即自存在としてである。即自存在とは要するに「もの」のことである。ものは、対自存在であるわたしとは違って意識をもたない。そのような存在に対してわたしは、いわば自由気ままに振る舞うことができる。しかし対象のうちには、そうはいなかいものがある。私と同じような、意識を持った存在、つまり対自存在としての他者である。私が数ある対象的存在から、このように特権的な存在を認めるのはどういうわけか。とりあえずは、わたしがその他者をわたしと同じような対自存在と認めるからだと言える。しかしなぜ、そうなるのか。

この疑問についてサルトルは、そうした他者がわたしに押し付ける圧迫から説明している。対象の中には、わたしに向かってまなざしを向けてくるものがある。そのまなざしが、わたしに羞恥とか恐怖といった感情をひき起こす。その羞恥がわたしに、ある特別な存在としての他者の実在性を確信させるというのである。これは認識の問題ではない、存在そのもののうちから湧き上がってくる感情である。その感情がわたしに、他者の実在について確信させるのである。

以上の議論を要約すれば、他者にはわたしにとっての対象としての対象=他者としての側面と、わたしからは独立した、それ自体が対自存在であるような主観=他者としての側面が共存するということになる。他者は、対自存在としては、わたしと対等に張り合う立場にある。

かくして、ここから先は、ヘーゲルの主人と奴隷に関する議論と同じような議論が展開される。わたしと主観=対象は、それぞれ対自存在という点では平等なのであるから、わたしが相手を対象化し、したがって即自存在にしてしまえるのと同じように、主観=対象としての相手は、わたしを対象化し即自存在に貶めてしまう。そこで互いに、相手を対象化し、自分をその対象化の主体として自由に振る舞う立場に立とうとして相克が生じる。わたしは相手の主人になることもできれば、奴隷に下落することもある。対自存在同士の関係としての人間関係は、サルトルにとって一次的には、相克と闘争の関係なのである。

わたしとそのような関係にある主観=他者としての他者の存在は、わたしの存在が偶然の事実であるように、やはり事実としてわたしに与えられる。「他者の事実は議論の余地のない事実であり、私を核心において襲う・・・他者は、まずはじめに構成されてしかるのちに私に出会うような一つの存在として、私に現れるのではなく、むしろ、私との根源的な存在関係のうちに出現する一つの存在として、また、私自身の意識と同様、疑いの余地のない、事実的必然性をもった一つの存在として、私に現れるのである」(松浪信三郎訳)

こう言うことでサルトルは、フッサールが、日常世界は他者の存在を含むと言ったことを意識しているのだと思う。しかしサルトルは、こう言う一方で、「私が私の自由な諸可能性の一つとして私自身(についての)意識を持つ限りにおいて、また、私がこの自己性を実現するために私自身へ向かって私を投企するかぎりにおいて、他者の存在の責任者は、この私である」とも言っている。他者は事実として私に与えられるのではあるが、それを具体的に構成するのは私自身である、と言いたいのであろう。

いずれにしてもサルトルが、他者の存在を認識レベルのこととしてではなく、感情レベルの問題としてとらえていたことは間違いない。サルトルはそうした姿勢を、ハイデガーから学んだのであろう。ハイデガーは、人間の世界内存在としての自覚を、不安に求めた。情緒としての不安が、人間を世界のうちで存在しているという確信をもたせるのである。それと同様に、サルトルにおいては、羞恥とか恐怖とか言った感情あるいは情動が、人間をして世界のうちで存在しているという確信をもたせるわけである。




HOMEフランス現代思想 サルト ル次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである