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共同存在:サルトル「存在と無」


共同存在についてのサルトルの議論は、「われわれ」についての議論である。サルトルは即自存在としての自己(わたし)から出発して、その即自存在の無化としての対自存在へと移行し、対自存在の他者にとってのあり方としての対他存在を経て、共同存在へと到達するのである。だからサルトルの「われわれ」は、対他存在が対自存在に根拠づけられているように、個人によって根拠づけられる。まず共同体があり、そこから個人が抽出されるというのではなく、あくまで個人が先にあって、その個人の集まりとしての「われわれ」が現れてくるのである。

「われわれ」とは、サルトルにとって、個人の集まりである。個人(自己)にとって他者が、対象=他者及び主観=他者という二重の相において現れたように、われわれは、対象=われわれおよび主観われわれという二重の相において現れる。対象=われわれというのは、第三者にとってのわれわれのあり方である。たとえば、古代の奴隷船の漕ぎ手たちが船を漕いでいるとしよう。漕いでいる個人には、自分が集団の一員として、集団に完全に融合しているという感覚は、とりあえずない。ところがそこに、着飾った貴婦人が視察かなにかで現れたとする。すると漕ぎ手たちは、自分らがその貴婦人のまなざしにさらされていることに強烈な羞恥を感じる。ぼろをまとった乞食のような自分たちの姿を恥じるのだ。そのとき生じているのが、「われわれ」という一体感だとサルトルは言う。

つまりサルトルは、対他存在におけるまなざしについての議論を、そのまま共同存在の議論にも適用しているのである。他人のまなざしが、自己の対他存在を基礎づけたように、第三者のまなざしがわれわれの共同存在を基礎づけるのである。その共同存在のありかたは、とりあえず、対象=われわれとしてのあり方だった。だが、われわれにはもう一つ別の相「主観=われわれ」の相がある。主観=われわれとは、まなざしを向けられる存在としてのわれわれではなく、まなざしを向けるものとしてのわれわれである。まなざしを向けるわれわれは、そのことによって、単に他者のまなざしに従属するのではなく、まなざしを向けるものとして主体的にふるまう。その振舞いはやがて、大きな集団としての振舞いに発展し、集団間の相克・戦いに発展するであろう。サルトルはその戦いの典型例を、階級闘争に見ている。サルトルは言うのだ、「被圧迫者のうちにおける階級意識の出現は、『対象=われわれ』を羞恥において引き受けることに対応する」と。

ブルジョワジーによって従属させられている労働者階級は、その従属に甘んじている限り、まなざしを向けられる立場にとどまる。それに反発して主体的に振る舞おうと決意するときに、まなざしを向ける者の立場に変化する。

しかし、共同存在のありかたは、階級闘争に集約されるような、相克・戦いの相にはとどまらない。相克が外部の敵に向けての振舞いとするなら、共同体内部における共同行為といったものも指摘できる。そうした共同行為の典型例として、サルトルは労働をあげている。労働は、無論孤独な作業でもありうるが、基本的には集団を前提としたものである。単に協働ということにとどまらず、労働に用いる用具類が社会における生産を前提としている。労働はきわめて社会的な営みなのであり、その社会的な性格が、労働する者同士を共同存在として結びつけるのである。

このようにサルトルの共同存在にかんする議論は、階級闘争を視野に入れたりして、かなり社会的な視点を感じさせる。サルトルがすでに「存在と無」において、階級闘争論の萌芽というべき議論を展開していることは興味深い。だがサルトルの基本姿勢は、あくまでも個人のうえに議論を立脚させることであった。先ほどの階級意識に関する言明のすぐあとにサルトルは、「『対象=われわれ』についての体験は『対他存在』の体験を前提としており、前者は後者のいっそう複雑な様相でしかない」とわざわざ断っているほどである。

「主観=われわれ」の感情は、それに対峙する第三者を前提とする。その第三者が規模を拡大したものが「ひと」という言葉で表現されるような世間である。「ひと」という言葉はハイデガー由来のもので、ハイデガーはそれをキルケゴールから受け継いだのだったが、もともとは、大衆社会の進展を反映した否定的な現状認識をあらわしていた。大衆社会における無性格な個人を、神と直接向き合う個人と対立させるために、「ひと」という言葉を使ったのであった。サルトルにはそうした近代社会への批判意識はあまりみられない。サルトルが「ひと」という言葉を遣うときには、あくまでも「主観=われわれ」との相関関係においてであり、「個人対大衆」といった、キルケゴール=ハイデガー的な図式とは縁がない。

なお、サルトルは、「ひと」の延長上に「神」を位置付けている。「神」は「ひと」が宗教的な衣をまとったものだと考えたのである。




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