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サルトルの所有論


サルトルの所有論は、単に経済的な概念ではなく、形而上学的な概念である。それはまた単独の概念ではなく、創作論、存在論とともに三位一体をなしている。所有は、創作によって根拠を与えられ、存在の根拠となっている。この三位一体の中核には、無論存在があるのだが、それは所有によって基礎づけられるかぎり、所有こそが真の中核である。それはキリスト教の三位一体の教義において、神なる父が名目上の中核ではあるが、その子であるキリストが実質的な中核であるのと同じである。

サルトルの三位一体は、人間の実存のあり方に根差している。サルトルは、人間の実存の本質は自由な選択にあると考えた。人間は自由を行使して、未来へ向けて自己自身を投企する。それをサルトルは実存投企と言っている。人間は実存投企することで自分自身の未來を切り開いていく。つまりサルトルの議論は、現在から未来へと発展的に展開するというベクトルをもっている。そこがハイデガーとは違うところだ。ハイデガーは、未來のあるポイントを基準にして、そこから現在に遡及するようなベクトルで物事を考えていた。未來のあるポイントを、人間にとっての完成された姿として位置付けたうえで、人間の営みは、その完成態へむかっての努力だというのである。それに対してサルトルは、現在を基準にして、そこから未來へ向かって自由な投企をするのだという。未来は完成態としてではなく、あくまでも可能性として捉えられている。ハイデガーとサルトルとのそうした違いの底には、時間の捉え方の相違があるのだが、今はそれには触れない。

三位一体に戻ろう。この三位一体において、サルトルは、創作を「為す」、所有を「持つ」、存在を「ある」という言葉で表現している。この三者のうちもっとも重要なのは、先ほども触れたように、「持つ=所有」である。「為す=創作」は、それ自体では自立した行為ではない、創作はその行為をしている限り、意味を持つのであって、創作の手を止めれば、創作では亡くなってしまう。それが意味を持つためには、作品としての「もの」にならねばならぬ。「もの」は所有されるものである。そういうわけで、「為す=創作」は、「持つ=所有」に対して従属関係にあるといえる。

一方、わたしの所有するものは、わたしにとって外的などうでもいいものではなく、私それ自身を象徴するようなものである。というより、わたしとは、わたしの所有するものにほかならない、というふうにサルトルは言うのである。「私は、私が持つところのものである」(松浪信三郎訳)とサルトルは言って、所有と存在とを内的に結びつけるのだ。「所有とは、我有化のしるしのもとに、所有される対象と合一することである。所有したいと思うのは、かかる関係によってある対象と合一したいと思うことである・・・持つ欲求は、実のところ、或る対象に対して、一種の存在関係にありたいという欲求、すなわち存在欲求に、還元される」

所有についての、サルトルのこうしたこだわりは、かれのプチブル意識から来ているのだと思う。プチブルほど所有にこだわるものはない。ブルジョアも大物になれば、所有自体に拘る度合いは弱まる。所有のもたらす権力を、所有を媒介せずに追求するようなフリをする。かれらにとって、最大の欲望は、金をためることであるが、金とは、あらゆるものを所有する可能性のことである。その可能性が、金に権力を付与するのだ。ところがプチブルには、そんな普遍的な権力を追求するような度量はない。プチブルは眼の前のものを我がものにすることで満足するのである。

プチブルは、いささかでも自己の所有するものを介して、自己の存在を確かめることができる。では、所有すべきものを何も持たないプロレタリアはどうなるのか。自己とは所有するものに他ならないのであれば、所有するものがないものには、存在への確信も閉ざされているほかはない。資本主義社会では、持たざるものは無に等しいというわけである(たしかにそのとおりなのだが)。

所有のうち最も価値のあるのは、恋人を「持つ」ことだとサルトルはいう。同じ所有でも、所有される対象によって価値が異なるのだ。ともあれサルトルは、スタンダールの有名な「愛の結晶」説を引き合いにだして、愛する女は、結晶作用的総合作用を通じて、世界全体を伴って現れるという。「愛する女が出現するとき、彼女は、そのまわりの大空や浜辺や海をあらわすようなものである。それゆえ、この対象を我がものとするとは、世界を象徴的に我がものとすることである」。女は、プチブルにとって、世界を所有するための安上がりの手段なのである。

この女をめぐる議論を足掛かりにして、サルトルは、「所有するとは、或る個別の対象を通して、世界を所有しようと欲することである」と言う。かくまで所有にこだわるサルトルは、所有の上に成り立っている資本主義社会賛美のための形而上学的アジテーターというべきであろう。

サルトルのとりあえずの結論は次のようなものである。「『持つ欲求』をともなわないような『存在欲求』はない。また逆に、『存在欲求』をともなわないような『持つ欲求』はない」。我々が生きている(資本主義)社会においては、生きる(存在する)ことと所有することは同義なのである。




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