知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学プロフィール 掲示板


サルトルの遊戯論:「存在と無」から


サルトルの遊戯論は、所有論の一バリエーションである。サルトルによれば、人間は、かれが所有するところのものと一致する。所有するものが大きければ大きいほど、かれの人間性は大きくなる。逆に、所有するものが少ないほど、かれの人間性は小さくなり、所有するものがない人間は、存在しないも同様の、要するになにものでもない存在という、形容矛盾的な状況を甘受せねばならない。ところで、遊戯の精神とは、心のゆとりから生れてくるものであり、その心のゆとりとは、人間性のゆとりから生れるものであることを考えると、人間は所有するものが多いほど、遊戯の精神に富むということになる。

サルトルは、こうした立場から同時代の唯物論者たちを攻撃した。サルトルによれば、同時代の唯物論者たちはくそまじめすぎるのである。かれらの教条の出所であるマルクスにしてからが、くそまじめすぎる。それは、遊戯の精神に欠けているからだ。そうなるのは、かれらが所有と無縁だからだ。マルクスの唯物論は、人間の精神を物質に還元するものであるが、それは人間が物質を所有するのではなく、逆に物質によって所有されることを意味する。これは、所有するものが何もないより、もっとひどい状態である。所有するものが何もない人間は、単に人間の数に入らなくなるだけだが、物質に所有された人間は、もっと始末が悪いのである。

唯物論者たちは、主観性を客観性のなかに解消してしまったために、遊戯の精神とは無縁となってしまった。遊戯の精神は、主観性の解放を前提とするとともに、主観性を解放させるはたらきをする。つまり、遊戯の精神は主観性とほぼ一致するのである。サルトルは言う、「遊戯は、事実、キルケゴール的なイロニーと同様に、主観性を開放する。実のところ、人間がその最初の起源であるような一つの活動、立てられた原理に応じてのみ帰結をもちうるような一つの活動でなくして、そもそも遊戯とは何であろうか」

こうしたサルトルの考えが、主観性こそが遊戯の源泉であるという思い込みにもとづいていることは明かである。たしかに主観性がなければ、遊戯を楽しむ精神も生まれまい。遊戯とはきわめて精神的なものだからだ。しかし、だからといって、主観性に閉じこもることが、遊戯の精神が生まれるための唯一の条件だとはいえまい。たとえば、エピクロスが、唯物論者として、遊戯の精神に富んでいたことは、サルトル自身、ほかの著作で認めていることだ。エピクロスの遊戯の精神は、主観性を相対化することから生れてきたもので、決してサルトルの言うように、主観性に閉じこもることから生まれたのではない。

マルクスは、そのエピクロスの精神を、19世紀のヨーロッパにおいて復興させたのであり、当然ユーモアにも富んでいるし、また、遊戯の精神を強く感じさせる。サルトルが、マルクスをくそまじめと言うとき、具体的に何をイメージしていたか明らかではないが、くそまじめが遊戯の精神を排除するような概念なら、サルトルの指摘は当たらない。

サルトルはおそらく、マルクスが所有に敵対的であったことが気に入らなかっただけだと思う。マルクスが所有を否定したのは、その所有が人間性の疎外をもたらす範囲内のことであって、所有ということそのものを否定したわけではない。第一、生きるためには食わねばならぬし、子孫を残すためには結婚しなければならない。食うためには、その前提として食物を所有しておらねばならぬのだし、結婚して子孫を残すためには、男は女を、女は男を所有していなければならない。そういう意味での所有は、人間性にとっての根源的な条件なのであって、それを否定することがナンセンスなことは、マルクスも十分わかっていた。それを、マルクスが、あたかも所有一般を否定するかのように見なすのは、サルトルの偏見である。

遊戯は、遊ぶことである。「遊ぶ」とは、サルトルの三位一体において、「為す=創作」に相当する。創作は所有をもたらすというのが、サルトルの図式であったから、「為す」こととしての遊戯は、所有の根拠となもなる。先に、遊戯とは所有を前提とすると言ったが、ここではその図式が反転して、所有が遊戯を前提するということになる。ということは、遊戯と所有とは、強固な円環的結びつきをなしているわけである。その円環的な結びつきから存在がにじみ出てくるというのが、サルトルの三位一体の帰結である。サルトルは、「遊戯とは、やはり、根本的に存在欲求である」と言っているが、そう言うことで、存在を、遊戯の根拠としての自由な意思の選択によって基礎づけようというわけであろう。

サルトルにとって、人間とは、明晰な意思によって行使される自由な選択と異なるものではないから、その自由な選択の戯れとしての遊戯を、人間の本質を構成するとみなしたがるのは無理もないといえよう。ただ、それはあくまで、サルトルの特異な人間観を前提とした話であって、その人間観に綻びがあれば、遊戯の見立てにも狂いが生じるのではないか。




HOMEフランス現代思想 サルト ル次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである