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唯物論と革命:サルトルのマルクス主義批判


サルトルが「唯物論と革命」を書いた1946年は、フランス共産党の権威が非常に高まっていた時期であり、また、革命への期待も高まっていた。そうした時代背景のなかで、サルトルは共産主義者たちと対決する必要を感じて、この文章を書いたといえる。サルトルがいう共産主義者は、革命者であって、かつマルクス主義者であった。サルトルの共産主義者への態度は、革命への原動力としては尊重する一方で、かれらの思想である唯物論については、厳しく批判するというものだった。それゆえこの書は、革命への情熱を煽る一方、唯物論を主張するマルクス主義を批判するという戦略をとっている。

この書におけるサルトルの唯物論理解は、非常に浅はかといわねばならない。かれが唯物論の特徴としてあげているのは、それが必然性の哲学であって、人間の自由な選択を全く考慮していないということである。マルクス主義達の奉じる唯物論は、人間の自由を物質の必然的な法則に還元してしまうものであり、したがって決定論である。かれらの革命は、人間の自由な選択としておこなわれるのではなく、歴史の必然性によって、いわば自動的に、あるいはタナボタ式に起る。そこには人間の自由な決断が介入する余地はない。革命者は、そんなに苦労しないでも、歴史の必然性によって革命をプレゼントしてもらえると考えている。そう言ってサルトルは、マルクス主義者を中心とする革命勢力の思想である唯物論を、徹底的に批判するのである。

だが、その批判は、上から目線で、頭ごなしの決めつけという形をとっており、理論の矛盾を内在的に明かにしようというものではない。だいたいサルトルの考えによれば、唯物論には、内在的な矛盾などないのである。なぜなら、唯物論は人間の精神的な営みまで物質に還元してしまうからである。物質には、内面などもともとない。精神は物質界の反映に過ぎない。反映とは、物質の表面において起きるものだ。精神自体が物質の一部なのである。

サルトルの唯物論への批判・攻撃は、観念論の肩をもつことには繋がらないようである。サルトルにとって、唯物論と観念論とはどちらも人間の主体性を軽視することでは同類の思想なのだ。唯物論が人間の精神を物質に還元するとすれば、観念論は人間のすべてを神の賜物に還元してしまう。要するに、どちらにも人間の主体性を見ることはないのだ。

サルトルは自分の思想を、唯物論と観念論とがどちらも無視していた人間の主体性に立脚させるのだと言う。かれの思想はだから、主体性の思想なのである。その主体性という概念をサルトルはキルケゴールから学んだらしい。キルケゴールは、「真理は主体性にあり」と言った。主体性こそが、世界を解釈するのみならず変革するうえでの決定的な要因なのだ。主体性を理解しないものに、革命を遂行する資格はない、というのがサルトルの基本的な考えである。

主体性に拘泥するサルトルの思想が、意識の自由な選択というかれの根本的なスタンスから来ていることはいうまでもない。人間存在の根拠を自由な意思に置くサルトルにとって、自由な選択を内実とする主体性こそが、人間の本質的な人間的属性なのだ。主体性のないところに人間性が成り立つわけがない。そういう意味からも、唯物論は、観念論ともども主体性とは無縁なのであり、したがって人間の人間らしい存在とは無縁である。そのような思想を推進力とした革命に、人間的な未来を想像することはできない、というのはサルトルの基本的なスタンスである。

こういうとサルトルは、革命一般に背を向けているようにも思えるが、本人の意識においては、自分のいう主体性こそが人間的な革命を成就することができる、ということになる。しかしサルトルは、その革命の具体的な詳細については一切語ってはいない。ただそれが主体性に立脚すべきだと言うのみである。

サルトルのために一言したいのは、歴史は人間の主体性の働きによって作られるものであるとする彼の思想には、一理あるということだ。サルトルは、「自然の歴史なる概念そのものがばかげている」と言う。「人間の歴史以外にはどのような歴史もない」のである。その意味は、歴史は人間が作るものであり、それは主体性によって作られるということである。自然のうちに歴史への衝動を見る見方は、自然を擬人化しているにすぎない。だが、エンゲルスは、その「自然の弁証法」のなかで、自然があたかもそれ自身歴史的な発展の傾向を内在させているかのような主張をした。それは、サルトルにとって「ばかげた」考えに過ぎない。自然の働きを擬人化するのはまだ許されるにしても、自然そのものが歴史的必然性によって発展していくというエンゲルスの主張は、サルトルにとっては、認めがたいものであった。そうしたサルトルの主張にも、一理あるというのは、主体性を云々すれば、論理必然的に、人間以外のものを歴史の担い手に設定することはできないからである。

なおサルトルは、この著作の中で、弁証法という言葉を、必然性とほぼ同義に使っている。それはだから、主体性とは真逆の内容をもった概念ということになる。後年のサルトルは、弁証法の価値をある程度認め、ある種の歴史主義に多少は傾いていくわけだが、この著作を書いた時点では、歴史の必然性ではなく、人間の主体性にもとづいた自由な選択の結果、歴史が作られていくと考えていたわけである。




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