知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学プロフィール 掲示板


サルトルと弁証法


サルトルは「存在と無」を、ヘーゲルの「精神現象学」を強く意識しながら書いた。かならずしも大きな影響関係があったというわけではないが、即自・対自の概念セットとか、個人の他者との関係のモデルとしての主人と奴隷に関する議論をほぼそのまま受け容れている。だが、ヘーゲルの方法論の特長であった弁証法については、ほとんど考慮を払っていなかった。サルトルが弁証法と取り組むようになるのは、マルスス主義との対決を通じてである。

「存在と無」におけるサルトルの議論は、一応、対他存在とか共同存在という形で、他者の問題にも目を配っている体裁をとってはいるが、基本的には、個人の意識に定位した(デカルト的な)議論であって、他者にしろ、他者の集団としての共同存在にしろ、あくまでも個人の意識によって根拠づけられるものであった。他者がそれ自体として、存在を主張することはあり得なかった。他者とは、個人の意識に映った対象的存在としてまずあるのであって、個人の意識を離れては何物でもなかった。サルトルにあって、(個人の)実存は本質に先立つものだったが、他者の存在は(それの対象的な把握としての)本質に先だつことはなかったわけである。

弁証法という言葉でサルトルの主張しているものとはなにか。ヘーゲルの場合、弁証法とは人間の認識過程のプロセスをさすものだった。人間の認識というものは、段階を踏んで進んでいくものである。たとえば、一軒の家を認識する場合、最初はその家の正面をもってその家全体を代表させる。だが家には、側面もあれば背面もあり、また屋根もある。だから家についての十全な表象を得るためには、正面だけではなく、側面や背面また上部からの眺めも含めてそれらの総合されたイメージを得なければならない。ところが人間の感性は限定されたものだから、その総合を一気に実現できるわけではない、段階を踏んですこしづつイメージを拡大し、それらを一つのイメージに統合する作用が必要である。その作用のことをヘーゲルは弁証法と呼んだわけである。要するに弁証法とは、ヘーゲルにあっては、個別的なイメージから全体的なイメージを形成するための認識のプロセスをさしていたのである。

つまり、ヘーゲルは、認識の場面における個別と全体とのかかわりあいのプロセスを弁証法と呼んだのであるが、そうした弁証法の捉え方を、サルトルも踏まえている。サルトルにあっても、弁証法とは、全体と個別との関わり合いをあらわす概念なのである。それは認識のレベルでは、客観と主観との関わり合いという形をとる。ここでサルトルが、全体とか客観と言っているものが、マルクス主義の言う客観的必然性に相当し、個別とか主観というものが個人に相当するわけだが、その組み合わせのうち、マルクス主義は客観的必然性を重視するあまり、個人の自主性を極端に軽視する結果を生んだ。だが、それは間違っている。個人というのは、客観的必然性のうちに解消されてしまうものではない。客観的必然性が個人の行動を制約するのは認めるとしても、それに個人が全面的に埋没するわけではない、とサルトルは主張する。そのあたりの事情をサルトルは次のように言っている。「人間は先行する現実の諸条件(その数のうちには、後天的諸性格、労働と生活の様式によって押し付けられた歪曲、自己疎外、その他を数えねばならない)の基盤の上に歴史を作るものであるが、しかしその歴史を作る者は彼等人間であり先行する諸条件ではない」(「方法の問題」平井敬之訳)。

サルトルは、マルクス主義が主張するような歴史の原動力としての客観的必然性を認めながらも、その(歴史の)形成に個人の果たす役割も重視する。というか、個人の役割のほうを、客観的な必然性よりも重く見ている。サルトルの弁証法をめぐる議論は、客観と主観、全体と個別を媒介するものとして個人の投企を持ちだすのであるが、その投企とは、「存在と無」における投企の概念と違ったものではない。「存在と無」においてはひとえに個人的な選択としてのみ見られていた投企が、ここでは、全体化への橋渡しとしての役割を持たされている。人間個人の投企を通じて、個人が全体と統合される、というような構造になっている。

要するに、弁証法をめぐるサルトルの議論は、全体と個別、客観と主観との相互作用ということに尽きる。この概念セットのうちサルトルの重視するのは、無論個別とか主観の側である。個別とか主観が、投企を通じて、全体との間で相互運動を繰り返す。その相互運動の中から、全体と個別の統合という事態が生まれてくる。その統合の中で、個別すなわち個人は、全体すなわち歴史的な所与と融合するのである。そこにおける相互運動を説明するものとして、サルトルは「前進的ー遡行的方法」というものを提起している。前進的とは、個別から全体へと向かう総合的な方法であり、遡行的とは全体から個別へと向かう分析的な方法である。その両者が有機的に組み合わされることで、社会とそこに生きる個人との生き生きとした関係が見えてくる、とうのがサルトルの主張である。

サルトルはまた、個人を制約する環境的な条件として、幼少期の経験とか言語を中心とした文化の体系をあげている。幼少期の経験に注目したのは、フロイトらの精神分析を意識したものであろうが、これについてのサルトルの議論は中途半端なものである。また、文化の問題については、サルトルはそれを「用具」の体系として見ている。おそらくハイデガーの用具論を踏まえているのだろうが、(「方法の問題」における)その持ちだし方が突然なので、いかにも消化不良の観を否めない。

こうした、消化不良で胃がこなれないような印象を与えるのは、サルトルが、「存在と無」で確立したような個人の自由に、無理やりマルクス主義的な全体化を接ぎ木しようとしたからではないか。「存在と無」におけるサルトルは、基本的には唯心論者と言ってよかった。そのサルトルが、唯心論者のままで、唯物論の化身たるマルクス主義との結婚をめざしたところに、大きな無理が生じたのではないか。




HOMEフランス現代思想 サルト ル次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである