知の快楽
哲学の森に遊ぶ
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フランス現代思想を読み解く
日本の哲学業界は、明治維新以降に成立した分野であるが、基本的には西洋思想を輸入して、それに多少の付加価値をつけることで成り立ってきたようなところがある。その輸入元は、1945年の敗戦を挟んで激変した。敗戦以前における日本の哲学業界はドイツを主な取引先にしていたのだが、敗戦後はもっぱらフランスと取引するようになった。取引先であるフランスの思想は、日本の需要によく応えたが、それはフランス現代思想と呼ばれる商品が、日本のみならず世界的な名声を得ていたことにも関係しているのだと思う。
戦後の日本が輸入したフランス現代思想は、サルトルの実存主義に始まり、レヴィ・ストロースらの構造主義、そして構造主義を乗り越えたという触れ込みで入ってきた所謂ポスト・構造主義と呼ばれるものまで、切れ目なく話題を提供してきた。フランス現代思想が世界の思想界を席巻したのは、こうした事情が大いに働いている。ここではそんなフランス現代思想の一端なりとも、読者諸兄に味わって欲しいと思う。
サルトル
存在と無:サルトルの現象学的存在論
サルトルの無
対自存在:サルトル「存在と無」
対他存在:サルトル「存在と無」
共同存在:サルトル「存在と無」
サルトルの無意識否定論
サルトルの所有論
サルトルの遊戯論:「存在と無」から
サルトルにおける穴とねばねばしたもの
私と他者:サルトルの対他存在論
サルトルのサド・マゾ論議
実存主義とは何か:サルトルの倫理思想
唯物論と革命:サルトルのマルクス主義批判
サルトル「方法の問題」を読む
サルトルと弁証法
サルトルのボードレール論:実存的精神分析
ボードレールの詩「女巨人 La Géante 」へのサルトルの注釈
サルトルの短編小説
嘔吐:サルトルの哲学小説
アルトナの幽閉者:サルトルの戯曲
サルトルのフォークナー論
レヴィ=ストロースのサルトル批判
相克と協働:廣松渉のサルトル批判
海老坂武「サルトル」を読む
長谷川宏「同時代人サルトル」を読む
メルロ=ポンティ
メルロ=ポンティ「行動の構造」を読む
メルロ=ポンティの弁証法:「行動の構造」を読む
メルロ=ポンティのベルグソン批判:行動の構造
メルロ=ポンティのフロイト批判:「行動の構造」を読む
メルロ=ポンティ「知覚の現象学」を読む
メルロ=ポンティの感覚論:「知覚の現象学」を読む
メルロ=ポンティの身体論:「知覚の現象学」を読む
性的存在としての身体:メルロ=ポンティ「知覚の現象学」
表現としての身体と言葉:メルロ=ポンティ「知覚の現象学」
メルロ=ポンティの共感覚論:「知覚の現象学」を読む
メルロ=ポンティの空間論:「知覚の現象学」を読む
メルロ=ポンティの他者論:「知覚の現象学」を読む
メルロ=ポンティのコギト:「知覚の現象学」を読む
メルロ=ポンティの時間論:「知覚の現象学」を読む
メルロ=ポンティの自由論
メルロ=ポンティ「意味と無意味」を読む
メルロ=ポンティのセザンヌ論:「意味と無意味」
メルロ=ポンティのサルトル論
メルロ=ポンティの映画論
メルロ=ポンティとマルクス主義
メルロ=ポンティ「シーニュ」を読む
間接的言語と沈黙の声:メルロ=ポンティ「シーニュ」
どこにもありどこにもない:メルロ=ポンティ「シーニュ」
メルロ=ポンティのレヴィ=ストロース論
メルロ=ポンティのフッサール論
生成するベルグソン像:メルロ=ポンティ「シーニュ」から
眼と精神:メルロ=ポンティの絵画論
廣松渉のメルロ=ポンティ論
鷲田清一「メルロ=ポンティ」を読む
レヴィナス
レヴィナスを読む:倫理と無限から
Il y a:存在のざわめき
ユダヤ人としてのレヴィナス
全体性と無限:レヴィナスを読む
レヴィナスの他者論
レヴィナスにおける真理と正義
享受としての生:レヴィナス「全体性と無限」
所有と労働と家:レヴィナス「全体性と無限」
レヴィナスにおける女性的なもの
レヴィナスと死
レヴィナス・コレクションから:レヴィナスのフッサール論
レヴィナスとヒトラー
レヴィナスの逃走論
レヴィナスのスピノザ論
ある(Il y a):レヴィナスを読む
レヴィナスの時間論
根源的な知:レヴィナス「存在論は根源的か」
存在の彼方へ:レヴィナスの後期思想
共時性と隔時性:レヴィナスの後期思想
語ることと語られたこと:レヴィナスの後期思想
主体性と責任・レヴィナスの後期思想
レヴィナスと愛の現象学
レヴィナスの他者論
他者と死者:内田樹のレヴィナス論
死と身体:内田樹のレヴィナス論
熊野純彦「レヴィナス入門」
合田正人のレヴィナス論
岩田靖夫「神の痕跡」を読む
デリダの思想
デリダ「エクリチュールと差異」を読む
コギトと「狂気の歴史」:デリダのフーコー論
狂気をして狂気を語らしめる:デリダのフーコー論
エドモン・ジャベスと本の問題:デリダのユダヤ論
暴力と形而上学:デリダのレヴィナス論
デリダのレヴィナス批判:暴力と形而上学
<発生と構造>と現象学:デリダのフッサール論
息を吹きいれられたことば:デリダのアルトー論
フロイトとエクリチュールの舞台:デリダ「エクリチュールと差異」
言語表現における構造と記号とゲーム:デリダのレヴィ=ストロース論
デリダ「声と現象」を読む
差延について:デリダ「声と現象」
デリダ「グラマトロジーについて」を読む>
現前性:デリダの形而上学批判
音声中心主義:デリダの形而上学批判
ロゴス中心主義:デリダの形而上学批判
存在の目的論的階層秩序:デリダの形而上学批判
ルソーの言語論:デリダ「グロマトロジーについて」
デリダによるルソー「社会契約論」の読み替え
根源の彼方に:デリダ「グラマトロジーについて」
ポジシオン:デリダとマルクス主義者との対談
デリダ「精神について」:ハイデガーの精神概念をめぐって
デリダによるハイデガー晩年の「精神」概念解釈
言葉にのって:デリダへのインタビュー
ドゥルーズの思想
差異について:ドゥルーズの初期の差異論
ドゥルーズ「ニーチェと哲学」を読む
能動と反動:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」
怨恨からやましい良心へ:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」
力への意思 ドゥルーズ「ニーチェと哲学」から
永遠回帰 ドゥルーズ「ニーチェと哲学」から
ニヒリズムと神の死:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」から
ニーチェの超人:ドルーズによる解釈
ニーチェにおける問いの立て方:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」から
ニーチェと弁証法:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」
ドゥルーズ「差異と反復」 解説と批判
それ自身における差異:ドゥルーズ「差異と反復」を読む
それ自身へ向かう反復:ドゥルーズ「差異と反復」を読む
哲学における前提の問題:ドゥルーズ「差異と反復」を読む
差異の理念的総合:ドゥルーズ「差異と反復」を読む
感覚されうるものの非対称的総合:ドルーズ「差異と反復」を読む
表象=再現前化批判:ドゥルーズ「差異と反復」を読む
反復と永遠回帰:ドゥルーズ「差異と反復」を読む
ジル・ドゥルーズ「意味の論理学」 新しい哲学の枠組
哲学者の三つのイメージ:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
意味について:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
できごとについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
ナンセンスについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
アリスの冒険について:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
パラドックスについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
ユーモアについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
クロノスとアイオーンについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
シミュラークルと古代哲学 ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む
欲望する諸機械 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む
オイディプス帝国主義 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む
神経症と精神病 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む
原国家 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む
文明資本主義機械 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む
精神分析と資本主義 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む
分裂者分析の積極的任務 ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス」を読む
ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
リゾーム ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
狼はただ一匹か数匹か ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
道徳の地質学 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
言語と記号 ドィルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
器官なき身体 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
顔貌性 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
ミクロ政治学と切片性 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
強度、動物、知覚しえぬもの ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
リトルネロについて ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
遊牧論あるいは戦争機械 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
捕獲装置 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
平滑と条理 ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」を読む
ドゥルーズ・ガタリ「哲学とは何か」を読む
哲学とは概念を創造することである ドゥルーズ・ガタリ「哲学とは何か」を読む
哲学地理 ドゥルーズ・ガタリ「哲学とは何か」を読む
哲学、科学、芸術 ドゥルーズ=ガタリ「哲学とは何か」を読む
ドルーズのサド・マゾ論
ヴァンサン・デコンブ「知の最前線」:フランス現代思想を俯瞰
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