知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




ドルーズのサド・マゾ論


サルトルは、サディズムとマゾヒズムを、基盤を同じくし、相互に反転可能な、密接な関係にあるものとしてとらえた。サディストの対象はマゾヒストでありえ、また、サディスト自身は容易にマゾヒストに反転可能だと考えたわけだ。それは彼の対他存在論から論理必然的に導き出される結論だった。対他存在としての私は、眼差しを向けられるものとして、相手の支配の対象となることを徹底することでマゾヒストとなるのであるし、逆に私が相手に眼差しを向け返し、相手を徹底的に支配することでサディストになる。というわけである。こうした考え方は、フロイトを初め精神分析学者たちも共有していたが、フロイトらがサディズムとマゾヒズムを精神病理の範疇として、つまり性的倒錯としてとらえていたのに対して、サルトルの場合には、倒錯ではなく人間関係の根本的なあり方を規定するものとしてとらえたわけである。

ドルーズはこうしたとらえ方に異論を唱える。サディズムとマゾヒズムはまったく異なった基盤を持った別の現象なのであって、両者を一緒くたにするわけにはいかない。サディズムとマゾヒズムの間に何らかの共通性が認められるとしても、それは皮相な見かけであって、両者は全く違う原理に立っている、とドルーズは考える。そのことを徹底的に解明したのが、「マゾッホとサド」と題する本である。

この本には、サルトルへの言及は全くない。ドルーズは専らフロイトら精神分析学者に標的を定めて、サディズムとマゾヒズムとを相互に反転可能な、同一の基盤を持った現象だとする彼らの主張を、些か煩雑さを感じさせながら、展開する。その結果、精神分析学者たちの主張するサド・マゾ相互反転論は一応ドルーズによって論破されたということにはなるが、それによってサド・マゾ相互反転論一般が論拠されたかというと、そこまでは言えないような気がする。すくなくとも、サルトルのサド・マゾ相互反転論はこれとは違う原理に基づいたものであるから、フロイトの論破がそのままサルトルの論破につながるとは言えない。

ドルーズのフロイト批判は、かなり緻密でかつ内在的なものである。つまり、フロイトを批判するのにフロイトとは別の原理を以てするのではなく、フロイトの原理を適用しながらその矛盾を突くという方法をとっている。フロイトの原理をそのまま適用すると、サディズムとマゾヒズムは、相互反転可能な、同じ基盤に立った現象ではなく、全く異なった原理に立った別の現象なのだということになるというわけだ。

ドルーズによるフロイトの原理の説明は、フロイトの主要概念をすべて動員したものだ。自我と超自我、母親と父親、生の本能と死の本能、といったさまざまな概念装置のセットを持ち出してきて、それに依拠しながら、フロイトのサド・マゾ相互反転論を論破する。その結果両者は、異質な構造であって変換可能な機能ではない、ということが確認される。

要するにこの本の目的は、サディズムとマゾヒズムとを、全く異なったものと確認することにある。だが、それを確認したところで、どのような意味があるのか。それについては、ドルーズは明晰な語り方をしない。ただ、両者を全く異なった構造とすることで、それぞれを純粋に見つめることにつながる利点があるのだと言いたいようである。あるいは、サドとマゾッホというこれら稀有な文学者の作品を、曇りのない眼で鑑賞できるという利点があるのだと言いたいようなのだ。





HOMEフランス現代思想









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである