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トーテムとタブー:フロイトの宗教・社会理論


「トーテムとタブー」は、フロイトが自分で開発した精神分析学の成果を、はじめて宗教・社会理論に適用したものである。結論を先取りして言えば、フロイトがこの論文集のなかで目指したのは、トーテミズムがあらゆる人類のもっとも古い宗教体系であって、それは神経症患者の強迫観念と同じ起源をもっているということを明らかにすることである。フロイトによれば、強迫神経症患者は原始人類と同じような精神構造を持っていて、したがって強迫神経症患者の研究から得られた成果、すなわち精神分析学は、原始人の宗教体系であるトーテミズムやタブーを合理的に説明できるということになる。

四つの小論文からなっている。一応それぞれが独立した体裁をとっているが、相互に関連し合っている。第一の小論はトーテミズムの現象面の特徴について考察し、第二の小論はタブーについて考察する。この二つの小論から、トーテミズムの本質がタブーと深いかかわりがあることが明らかにされる。トーテミズムの現象面の特徴は外婚制であり、その基礎には近親性交忌避があるが、その忌避がタブーの基礎となっている。タブーにはそのはかにも色々な形があるが、もっとも重大なのは近親性交に関するタブーなのであって、これがトーテミズムの本質的な部分をなしていると、とりあえず主張される。

第三の小論はアニミズムに関するものである。アニミズムには色々な定義があるが、フロイトはその霊魂観に注目しながら、思考の万能と定義する。思考の万能とは、観念的結合を現実的結合と取り違えることである。この取り違いを通じて、観念的結合である精神的な内容が現実界に投影されるとトーテムとなる。そのトーテムにはさまざまな観念がまといついており、それを単純化して言うと、好意的な感情と悪意に満ちた感情との両価的な性質のものとなるが、その両価性こそがあらゆるタブーを特徴付ける。タブーとは、禁止であるとともに、親しさでもある。それと同じことがトーテムについてもいえる。トーテムとタブーとは、この両価性を通じて結びついているのである。

第四の小論は、以上三つの小論での議論を踏まえて、トーテミズムがあらゆる人類のもっとも原始的な宗教的・社会的体系であったと結論付ける。この小論において、トーテミズム、タブー、アニミズムといったそれぞれ独立のテーマが統合され、壮大な宗教・社会理論が構築されるのである。

以上を緒論として、以下もう少し踏み込んだ議論をしてみたい。

まず、トーテミズム。トーテムとは特定の動物乃至自然界の一部のものが、種族の祖先とされたり、種族と特別の関係があると思念するものである。色々な形のトーテムがあるが、もっとも基本的なものは動物である。原始人のあるものは、このトーテムを中心にして世界についての認知の枠組みを形成している。その意味では、トーテミズムは社会認識の体系である。そのトーテムにはさまざまな特徴があるが、フロイトはそのなかで最も重要な特徴として外婚性に着目し、トーテミズムは外婚性を基礎付けると見た。そしてその外婚制のさらに基礎をなすものとして近親相姦忌避をあげるのである。近親相姦忌避の感情が、外婚制の導入へとつながり、その外婚制を補強する原理としてトーテムが導入された。トーテムとは、誰と誰とが合法的に性交できるか、その外的な標識となるのである。トーテムを同じくする者同士は性交できないという形で。

次にタブー。タブーは、いわゆる原始人の観察から得られた習性あるいは態度のことで、多くの場合禁忌という形をとる。汝なすなかれ、というのがタブーのもっとも一般的な表現である。だがタブーには、近寄り難いという感情を通して、畏敬の気持も含まれている。つまり、両価的であるわけだ。この両価性という特徴が、同じく両価性を帯びているトーテムと結びつく契機となる。

トーテミズムは宗教だが、タブーはそれ自体では宗教ではない。宗教より古い起源のものだとフロイトは言っている。古いばかりではなく、そもそも宗教を成り立たせた最大の要因だと考えているようである。タブーに込められた人間の両価的な感情が、やがて宗教へと洗練されていったと考えるわけである。その宗教のもっとも古い形がトーテミズムだとフロイトは考える。最後の小論でフロイトは、トーテミズムはあらゆる人類が最初に経過した宗教形態だというような意味のことを言っているのである。

そのように押さえた上で、フロイトはタブーの心理学的起源について考察する。結論的に言うと、タブーとは人間の精神的な内容が外界に投影されたものだということになる。精神的な内容には、悪意に満ちたものや好意的なものがあり、そうした両価的な感情が外界に投影されてタブーとなる。その感情のもっとも重要な部分は性的なものである。人間の性的な感情のかなでも最も重要なのは、近親相姦をめぐるものである。その近親相姦をめぐる禁忌と魅力とが、タブーのなかに表現されているというのがフロイトの基本的な考えである。タブーがトーテムを基礎付け、トーテミズムがあらゆる人類の最初の宗教とフロイトは考えるわけだから、その宗教の起源が近親相姦忌避にあるとすることは、近親相姦こそが人類にとってもっとも根源的で、かつ扱いの難しい問題だということになる。フロイトは性を通じて人間の本質を考えるわけである。

アニミズムについての考察は、アニミズムを思考の万能ととらえることで、その思考の万能こそがタブーやトーテミズムを基礎づけたと主張することに重点が置かれている。アニミズムはフロイトに依れば、人類のもっとも古い観念体系ということになり、そこからあらゆる宗教的・社会的システムが発生してくるということになる。アニミズムについての考察は、それ自体で興味深いものがあるが、それについての議論は別稿に譲ることにして、先に進みたい。

以上の議論を踏まえてフロイトは、トーテミズムについての壮大な理論を構築しようとする。その理論の骨格は次のようなものである。

トーテミズムはあらゆる人類の文化の一段階である。というより、すべての人類が最初に形成した宗教的・社会的システムである。その内実の中核には近親性交忌避の感情がある。近親性交忌避が、さまざまなタブーを導き、そのタブーのもつ両価性がトーテミズムの両価性と緊密に結合した。近親性交は、自然な状態では、人間によって追及の対象となるものである。一部の学者が言うように、人間には近親相姦への嫌悪が自然に備わっているから、近親相姦への禁忌が制度として生まれたというのは間違った考えである。人間は、近親相姦を求めるように出来ているからこそ、それをタブーという形で抑圧しなければならなかったのである。このように抑圧された感情を外部に投影するという心的メカニズムは、現代の神経症患者の強迫神経症状と共通している。人類は発生した当初から今日にいたるまで、近親性交という性的な誘惑に取りつかれ続けてきた、というのがフロイトの理論のもっとも核心的な部分である。

フロイトの理論にはもう一つ、重要な柱がある。父と子の関係である。フロイトは、人類はそもそも父親を中心とした家族という形から出発したと考える。父親は絶対的な存在であり、息子たちは逆らえなかった。息子たちの最大の関心事は、母親や姉妹であったが、父親によって母親や姉妹との性交は硬く禁じられていた。そこで息子たちは力をあわせて父親を殺害し、父親の束縛から自由になろうとした。それは成功したが、しかし息子たちは深い心の傷を負った。息子たちは父親を憎悪すると同時に、愛してもいたからだ。その後悔の念が息子たちの潜在意識のなかに根付いた。その父親への後悔と思慕の念が、キリスト教など、フロイトが高度な宗教と考えるものの起源となった。そのへんの機微をフロイトは次のように表現している。「暴力的な原父は、兄弟集団のだれにも羨まれ、かつ恐れられていた模範であった。そこでかれらは、それを食い尽くす行為において、父との一体化を進行して、おのおのが強さの一部を自分のものにしたのである。人類の最初の祭りであるかもしれないトーテム饗宴とは、この重大な犯罪行為の反復であり、記念祭であろう。そしてこの行為とともに社会的組織、道徳的制約、宗教などの多くのことがはじまったのである」(吉田正己訳、以下同じ)

フロイトによれば、神とはこの殺された父親なのである。原罪は父親殺しのことに他ならない。キリストはその原罪を一身に担って、ほかの兄弟たちである人類を代表して父親殺しの罪をつぐなった。フロイトは言う、「キリスト教神話では、人間の原罪とは、疑いもなく、神である父に対して罪を犯すことである。キリストが、自分の生命を犠牲にすることによって、人間を原罪の罪から救済するとすれば、彼は、この罪とは殺害行為であった、という結論をわれわれに強いていることになる。人間の感情に根ざしている同等反復の法則によると、殺人は、別の生命をいけにえにすることによってしかつぐなわれないのである。逆に自己犠牲は、殺人罪を暗示するものである。だから、もし自分の生命をいけにえにすることが、父なる神との和解をもたらすとすれば、そのつぐなわれるべき罪とは、父の殺害以外の何ものでもありえなかったのである」

こうしてフロイトは、キリスト教の起源を、ユダヤ人の近親性交へのあこがれと、ユダヤ民族の原父殺しの記憶の中に求めるわけである。


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