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快感原則の彼岸:フロイトの反復脅迫論


フロイトの中期の代表的な論文「快感原則の彼岸」は、反復脅迫及び死の衝動・生の衝動の対立について論じたものだ。反復脅迫は人類史を説明するキー概念として、また死の衝動・生の衝動の対立も人類の生存を説明するための便利な概念として、多くの思想家が依拠してきたものである。フロイトの社会理論(社会的存在としての人間集団についての理論)の核心をなすものといってよい。

この二組の重要な概念をフロイトは快感原則との関連において説明する。快感原則というのは、人間の本質と言ってよいものだ。この場合の人間とは、(精神分析学者としてのフロイトにとっては)心理学的な意味での人間である。したがってその文脈で人間の本質と言う場合、心の本質的なあり方というような意味合いになる。その心が「自発的に快感原則に統制されて進む」(井村恒郎訳、以下同じ)というわけである。快感原則とは、「そのつど、ある不快な緊張によって呼びおこされ、次いでこの緊張の減退をもたらす結末、つまり不快を避け、快を生むような結末に向かって進む」ような心の過程を言う。人間の心は本来、不快を避け快を求めるようにできているというわけである。この考えをフロイトは、精神分析の実践を通じて確信するに至ったと言っている。

この快感原則は、文字通り原則的に、すべての心の過程を支配しているが、なかには、その例外もある。そう言ってフロイトは、快感原則の例外として、現実原則と反復脅迫を持ち出すのである。現実原則とは、快感原則と現実との折り合いのようなもので、長期的で安定した快感のために、当面の一時的な不快をしのぼうというものである。

一方反復脅迫のほうは、もっと根の深い原因に基づいている。反復脅迫というのは、同じ行為を何度も繰り返さざる得ない衝動をいう。そうした衝動は、普段は意識による強い抑圧によって無意識のうちに閉じ込められ、表面化することがないのだが、なんらかの事情で、その衝動が勢いを増し、意識がそれをコントロールできなくなると、反復脅迫という形で発現する。要するに、普段無意識のなかに閉じ込められていた不快な衝動が、突然そのはけ口をもとめて反復脅迫の形をとるというわけである。

無意識の衝動がなぜ、反復脅迫の形をとるのか。フロイトは小児の反復脅迫の例を挙げながら説明している。フロイトがあげた例は、子供が母親に向かって、自分から去るのを許すことにかかわるものだ。子供は本当は母親に去ってほしくない。去られるのはその子にとって非常に不快なことなのだ。その不快なことを反復して行うことで、子供は自分がその不快を支配した気になれる。その支配の満足感が、不快の感覚をしのぐところに、反復脅迫の存在理由がある。そのようにフロイトは言うのだが、それによって明かされるのは、子供においては、無意識の衝動を反復脅迫という形で繰り返し表現することによって、その不快性を支配したという満足が得られる、ということだと思う。それが大人を含めたすべての人間にあてはまるのかどうか。フロイトは説明しきれていないようにも思えるのだが、いずれにしても、フロイトの反復脅迫論は、快感原則の例外として、人間の無意識の衝動が発現したものだとする考えには揺らぎがない。

このようにフロイトの心についての議論は、つねに意識と無意識の対立を中心にして展開される。普段は意識が無意識をコントロールしているが、何らかの事情で、無意識のほうが優勢になる場合がある。夢とかヒステリーはそうした無意識の優勢が典型的に見られる領域だが、反復脅迫においても、無意識が意識を凌駕して、自己の言い分を通そうとする、と考えるのである。

無意識は、意識とは異なった性質を持っているとフロイトは言う。意識は、カントのいうような時間と空間のカテゴリーに従っているが、無意識には時間性がない。無意識の内容は、相互に前後関係とか因果関係とかいった時間的な要素は全くもたず、すべての内容物がそれ自体で独立していて、無時間的である。その無意識の内容物の中でも、衝動はもっとも大きな力を持つ。普通意識は、外界からの刺激を適切にコントロールすることで、異様な圧力から逃れて安全を保つ。ところが、内界からの圧力すなわち無意識の衝動は、外界からの圧力のようにはコントロールできない。内界からの圧力については、せいぜい意識の検閲作用が働く程度だが、その検閲は無意識の衝動を完全に抑えられるほど強くはない。その結果、無意識の衝動が表面化し、その多くが反復脅迫の形をとる。そうフロイトは考えるのである。

要するに、反復脅迫は、無意識の衝動が、意識による抑圧を突破して、外的に出現したものだということになる。反復脅迫においては、衝動は具体的な行動に翻訳されて実現するので、ある程度、衝撃の強さは緩和されているといえる。ところが、その衝撃が、コントロールのきかない状態で一気に爆発する場合がある。そういう場合には、その衝撃によって重篤な神経障害に陥ることがある。それをフロイトは、外傷性神経症と比較して、心の内部に直接の原因を持った神経症と言っている。

人間が、こうした神経症に陥るのは、衝撃があまりにも突発的で、心にそれを受け入れる準備ができていないからだとフロイトは考える。人間の感情の中には、不安、恐怖、驚愕といったものがあるが、これらは互いに異なった役割を果たしている。不安は具体的な対象を持たず、自己にとって脅威を与えそうな事態に備えるという心の状態である。恐怖は、具体的な対象を持っており、その対象に対する恐れを内実としている。驚愕は、何らの心の準備もなく、また対象についての明確な認識のない状態で、不意打ち的に襲われたことに伴う心の破壊的な状態をいう。外傷性神経症は、その驚愕の結果だといえるし、また内面からの大きな衝撃も深刻な神経症を引き起こす。

内面からの衝撃を、あたかも外部からの衝撃のように受け取ることがある。それをフロイトは「投射」と呼んでいる。衝撃があまりにも大きいので、それが自分の内面に根差したものとはなかなか受け取れないのである。

フロイトの社会理論は、エディプス・コンプレックスとか性的リビドーとかいった概念を中核にしているが、そうした概念群と反復脅迫との間には深い関連がある。フロイト自身はその関連を主題的に論じることはなかったが、日本の柄谷行人など、反復脅迫概念を中心にしてフロイト理論を受け取る人々には、無意識を中核に置いて、その具体的な発現として、これら一連の概念群を関連付けようとする動きもみられる。

なお、「死の衝動」と「生の衝動」の対立も、快感原則との関連において論じられているのだが、それについては別稿で取り上げたいと思う。


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