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死の衝動と生の衝動:フロイトの社会理論


死の衝動と生の衝動の対立についてのフロイトの議論は、快感原則の議論の延長にあるという点では、脅迫反復に関する議論と同一平面に属する。もっとも、反復脅迫は、快感原則の例外として現れたのだったが、死の衝動は快感原則そのものの表れという大きな違いはある。死の衝動は、フロイトによれば、快感原則にしたがっている生き物の根源的な傾向である。その理屈にしたがえば、人間を含めたすべての生き物の究極の目的は死ぬことにあるということになる。それに対して、生の衝動は、生き物としての惰性的なあり方という位置づけである。生き物は、発生して以来死ぬことに目標を置いてきたが、偶然生殖の能力を得たために、生きることも追及することになった。もっともその生き方は、種としてのものであって、個体としては、生き物は死を免れぬものであるし、また、それを目的としていると断言できる。そうフロイトは自信たっぷりに言うのである。

死の衝動はどこから生まれるのか。すべての生き物は快感原則に従っていると考えるフロイトは、快感原則とは以前の(安定した)状態に復しようとする傾向だという。生き物にとってそもそもの出発点は無機質の状態であったわけだから、それに復帰することが快感原則にかなっているのである。そしてその無機質の状態とは、生物ではない状態を意味するから、それに復帰するとは、死を意味する。こんな理屈を弄しながらフロイトは、生き物は死ぬことに快感を覚えるのであり、死こそが生き物にとっての究極的な目標だと結論づけるのである。

これに対して生の衝動は、生き物が生殖の機能を獲得したことによって生じたとする。生殖とは、新しい命を通じて種としての存続を目指すものと言える。親から子へと命がうけつがれることで、親が死んだあと、子を通じて種が保存される。そういうことをイメージしているのだろうと思う。個体は死ぬが、種は存続する。このことをフロイトは、死の衝動・生の衝動の対立とほぼ並行する概念セットである自我衝動・性衝動の対立として表す。自我衝動は個体としての衝動であって、それは死を目指す。性衝動は生殖を通じて種の存続、つまり生の連続を目指す、という構図である。

このようにフロイトは死の衝動こそ生き物の根源的な傾向だというのである。それに対して、生の衝動こそが根源的だとする説もある。ベルグソンがその代表だが、フロイトはベルグソンには一切言及していない。そのかわりに同時代の学者ワイスマンを引き合いに出す。ワイスマンは、単細胞生物には生の衝動しか見られないとしたうえで、多細胞の複雑な生き物が生殖機能を獲得したことで、死の衝動も生まれたと主張した。おそらく、種としては存続する一方で、個体は死ぬという事実を根拠にした議論だと思う。それに対してフロイトは、単細胞生物においても、死の衝動のほうが根源的だと主張した。単細胞生物も、新しい世代の誕生にともない、親の世代は死ぬのである。それがそうは見えないのは、生が死を覆い隠しているからだ、つまり親から子へのバトンタッチが断絶なく行われるために、あたかも死が介在しないように見えるだけだというのである。

要するにフロイトは、すべての生き物にとって、死の衝動こそが根源的であって、生の衝動はそこから派生したと考えるのである。死の衝動が根源的なのは、生き物は快感原則にしたがっているからであり、その快感原則とは、一切の変化のない安定した状態としての死を目指すからである。

生の衝動は性衝動とも言い換えられるように、生殖あるいは性と深い関係がある。フロイトはその性にかかわる衝動をリビドーと名付け、そのリビドーこそが、人間の根源的な衝動だとした。人間のほとんどの行動の動機は、すべてこのリビドーに関連付けて説明されていたというのが、フロイト説の、少なくとも前半期の大きな特徴であった。それが、この「快感原則の彼岸」においては、生の衝動よりも死の衝動のほうが根源的だというふうに軌道修正したわけである。以後フロイトは、死の衝動と生の衝動の対立を基軸にして、自分の学説を再構成していく。前半期のフロイト説は、なんでも性と関連付けなければ気が済まないなどと揶揄されてものだったが、後半期はつねに死を念頭に置きながら、慎重な議論をするようになったのである。

前半期の議論では、リビドーは自我の根源的な衝動エネルギーだったが、後半期の議論では、自我はリビドーとしての性衝動つまり生の衝動ではなく、死の衝動と関連付けられる。個人の自我の究極的な目標は、性リビドーの解放ではなく、したがって生きることを享楽することではなく、死の衝動つまり死ぬことにあるというふうに、大転換するのである。死ぬことが快感原則にかなうからだというのがフロイトの主張なのだが、生き物の究極の目標が死であるとは、なかなか普通の人間の常識的な感覚とは相いれないように見える。

フロイトとは正反対に、生への衝動こそがすべての生き物の根源的な衝動だと主張した代表的な思想家として、ベルグソンがあげられる。生き物はある段階で生まれて以降、これまで進化を重ねてきた。その生き物の生成を支配しているのは、ある種の生の原理である。その生の原理(ベルグソンはそれをエラン・ヴィタールと呼ぶ)が、生き物をこの世界に発生させ、その後はたえざる進化の動きへと突進させた。だから世界に生きているものは、すべて生きるように宿命づけられている。死が問題になるのは、個体のレベルのことであって、種としては、また生き物全体としては、生の原理が圧倒する。かようにベルグソンは考える。かれが「生の哲学者」と呼ばれる所以である。

それに対して、後半期のフロイトは、死に取りつかれたようである。20世紀の初頭は、死が流行のテーマになっていて、ハイデガーなどは、死を参照軸にしならが人間存在の本質なるものを解明したものだが、そうした動きは、地球規模の大戦争にともない、死が普遍化したという切羽詰まった状況に促されたのだろうと考えられる。日常化した死を前にして、それを避けては、何事も真剣さに欠けるという雰囲気が高まり、それが死の問題を前景化させたという面はあるだろうと考えられる。

フロイトの死についての議論は、従来のかれの学説の多くに重大な影響を及ぼさざるをえなかった。その一例としてサディズムの解釈の変更がある。従来の説では、サディズムはいわゆる変態性欲の一つとして、性の衝動に強く関連付けられていたのだが、それが死の衝動に基づくものだと解釈変更された。死の衝動は本来自分自身に向けられるものだが、そらが何らかの理由で他者に向けられるとき、そこにサディズムが成立する。一方、マゾヒズムのほうは死の衝動が自分自身に向けられたものである。そういうことで、従来はサディズムを一次的としてマゾヒズムをその反転バリエーションと見ていたものが、マゾヒズムの一次性を強調することになった。

フロイトの死の衝動と生の衝動についての議論は、のちにエロスとタナトスの対立という具合に、他の学者(ノーマン・ブラウン)によって発展させられたが、フロイト自身は、あまり掘り下げることはしなかったといえる。


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