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集団心理学と自我:フロイトの集団論


「集団心理学と自我の分析」と題するフロイトの著作は、「トーテムとタブー」で本格的に着手したかれの社会理論の延長線上にある仕事である。かれがこの本を書いたのは1921年のことだった。したがって第一次世界大戦の影を認めることができる。かれはこの本のなかで、集団の典型として教会と軍隊をあげているのだが、軍隊への注目が第一次大戦を意識しているのは納得できる。また、第一次大戦後には、大衆社会化現象が顕著となり、そこで集団の動きが注目をひくようになった。フロイトはこの著作のなかで、集団論の先駆的議論としてル・ボンの「群衆心理」を取り上げている。「群衆心理」が刊行されたのは19世紀末の1895年のことだが、そこに描かれていたような集団現象が大規模に現れるのは第一次大戦後といってよい。フロイトの集団論は、そうした時代背景のもとで書かれたのである。

ル・ボンは、群衆によって集団を代表させ、その群衆をかなり否定的に見る。それは、フロイトより遅れて集団論を展開した「オルテガ・イ・ガセ」も同じである({大衆の反逆」における集団の見方)。それに対してフロイトは、集団をかならずしも否定的にのみ見てはいない。肯定的というわけでもないが、集団にはそれ固有の原理があり、それは人間性に深く根ざしているというような言い方をしている。

オルテガはともかく、ル・ボンが群衆としての集団を否定的に見たのは、一時的に形成され、非合理な情緒によって結びついた集団をもっぱら対象としているからである。たしかに、モップといわれるような集団は、短時間の間に形成され、非合理的な行動を示したあと、速やかに消滅する。そういう集団については、たしかにル・ボンが言うような否定的側面を指摘することができる。そうした集団は、「衝動的で、変わりやすく、刺激されやすい。集団は、もっぱら無意識によってみちびかれている。集団を支配する衝動は、事情によれば崇高にも、残酷にも、勇敢にも、卑怯にもなりえようが、いずれにせよ、その衝動はきわめて命令的であるから、個人的な関心、いや自己保存の関心さえも問題にならないくらいである」(井村恒郎訳、以下同じ)

こうした一時的な集団に対してフロイトは、恒常的な集団を対置する。フロイトがそうした恒常的な集団の例としてあげるのは教会と軍隊である。こうした集団は、一時的な群衆とは異なり、強固な人間関係によって結びつき、しかも長い時間的なスパンの中で活動する。そうした集団を結びつける原理はなにか。そういう問題意識を以て、フロイトは集団の形成原理を考察する。

集団の形成原理についてフロイトは色々言っているが、ごく単純化すると、愛のリビドーが個人を集団に結びつける原理だということになる。愛のリビドーは、フロイトにとっては、人間に本然的に備わった衝動であるから、それによる集団形成は、人間の本質の一部を構成するということになろう。じっさいフロイト自身、集団形成は人間の本能的な衝動だと言っている。

フロイトは他方で、集団形成へと向かう社会的衝動はけっして根源的な、分割できない衝動ではない、とも言っている。この文字面からは、集団形成を本能的なものとする主張と矛盾するように受け取れるが、おそらくフロイトは、その場合に参照している集団のタイプを分けて考えているのだろう。本能的な衝動云々は、フロイトが言うところの恒常的な集団にあてはまり、非根源的云々は一時的な集団にあてはまるのだろう。フロイトは、一時的な集団と恒常的な集団を切り離して論じ、恒常的な集団こそ集団の本来的な姿だと考えていたようである。

フロイトのいう恒常的な集団には、かならず指導者がいる。そこが、指導者を欠き無秩序に陥りやすい一時的集団との根本的な相違である。集団の成員は、その指導者と情緒的に結ばれているとともに、同輩ともやはり情緒的に結ばれている。それを結びつけるのは愛のリビドーである。愛のリビドーにとって根源的なのは、指導者への愛である。この愛が父親への愛の転化したものだということは容易に見てとれる。その父親のイメージがさらに発展すると神になるわけである。したがって、集団形成における愛のリビドーの持つ意味は、人間の社会的な存在様式にとって決定的な意味を持つ。なぜなら、この愛のリビドーは、個人としての人間の行動を動機づける衝動であるとともに、人間を集団に結びつける社会的衝動でもあるからだ。ここに愛のリビドーに基づくフロイトの人間論が、一つの体系に発展するのである。それは個人・集団を通じた人間の存在様式を中心とした、人間の一般理論である。

愛のリビドーのもっとも充実し、完成されたものは宗教である。フロイトは宗教を排他的なものと見ている。それが排他的になるのには原因があると考える。愛のリビドーの及ぶ範囲は、狭い集団を超えることはなく、人類全体をカバーすることはあり得ないと思ってのことだろう。フロイトは言うのだ、「人間は群族動物であり、ひとりの指導者によって統率されている群族のなかの個体である」と。

そんなわけだから、「宗教は、たとえ、それが愛の宗教とよばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。もともとどんな宗教も、それに所属していない人たちにとっては、残酷で偏狭になりがちである」

フロイトがこう言うとき、彼の念頭にはユダヤ教やキリスト教のことがあったのだと思う。だがユダヤ教やキリスト教ばかりが宗教ではない。あまたある宗教の中には、たとえば仏教のように、所属外の人々にも慈悲を垂れるものもある。仏教は、山川草木まで成仏できると言っているから、フロイトが聞いたらびっくり仰天するだろう。

ともあれフロイトの集団論は、かれ独得のリビドー論を介して、集団と個人とが同じ一つの原理によって説明できることを主張したものである。その原理とは愛のリビドーであった。愛が人間をはぐくむのである。ということは、フロイトは愛の使徒だと言えそうである。


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