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フロイトの不安論


不安の問題は、キルケゴールが提起して以来、主に実存主義系の哲学者たちを中心に取り上げられてきた。とりあえずハイデガーの不安論などは、もっとも大きな影響をもたらしたものだ。もっともハイデガーは、自分自身を実存主義者だとは思っておらず、また、ヒューマニストとも思っていなかったが、不安が人間の存在を解き明かすうえでもっとも中核的な概念だとは認めていた。その不安とはもっとも人間的な現象であるから、それを自分の思想の中核に据えることは、ある意味ヒューマニスティックだと言えなくもない。

この小論はフロイトを取り扱っているのだから、キルケゴールやハイデガーにこれ以上言及することはやめておきたい。小生がわざわざこの二人を持ち出したのは、彼らの不安概念をフロイトもまた考慮せざるを得なかった限りでのことである。彼らは不安を、恐怖と対比し、恐怖が具体的な対象をもっているのに対して、不安はそのように具体的な対象を持たないことを強調した。不安は具体的な対象をもたず、漠然とした情緒のようなものとして捉えられた。その情緒は、人間が生きているという事実に根ざしている。生きていることに伴う、漠然とした情感が不安という形をとるというのが、彼らの考えであった。、その考えは大きな影響を及ぼし、フロイトもそれに一定程度影響されたということができる。

フロイトもまた、不安を具体的な対象をもたない点で恐怖とは異なるとした。その点では哲学的不安論と同様であるが、しかしフロイトは不安を単に情緒として片づけたりはしなかった。不安は現実的な効果と結びついている。現実的な効果とは、ヒステリーや脅迫神経症といった精神・神経障害である。だいたいフロイトは、不安の概念の抽象的な考察から出発して具体的な精神障害の説明にいきついたのではなく、ヒステリーや強迫神経症といった具体的な精神障害の研究を通じて不安の概念に突き当たったのである。したがってフロイトにとって不安とは、極めて臨床的な操作概念である。

フロイトは不安についての自分の考えを、哲学者たちのそれと比較して、次のように言っている。「私はおよそ世界観の作成などを心がけてはいない。そういうことは哲学者にまかせるがよい。疑いもなく哲学者というものは、あらゆる事情を一切合切書き記した旅行案内をもたないと、人生の旅行ができないでのである」(加藤正明訳)。それに対して自分は、一歩一歩試行錯誤を積み重ねながら前へ進んでいくのだという趣旨のことを延べている。科学とはそういうものだ。実証の積み重ねが有効な理論の体系をもたらすのであり、その逆ではない、というわけである。

試行錯誤の好例であるかのように、不安についてのフロイトの議論には、時期によってかなりなユレがある。そのユレは、不安の原因を何に置くかによる。フロイトが考えている不安の原因には、大別して三つのものがある。生物的な要因、文化的な要因、心理的な要因である。そのどれか一つを強調することによって、不安論はかなり趣の異なったものになる。フロイト自身は、当初は純粋に心理的・精神的な要因を専ら重視していたが、そのうち、ランクに影響されて生物的な要因を重視したり、また、文化的な要因を重視したこともあった。文化的な要因というのは、社会が個人に課すところの倫理的な要請が、個人の行動に大きな影響を及ぼすことに着目したものである。

晩年のフロイトは、再び心理的な要因を重視する立場に戻ったようである。1926年の論文「制止・症状・不安」はフロイト晩年の不安論を代表するものだが、その中でフロイトは、自分のそれまでの歩みを振り返りながら、当面自分が達した中間結論のような形で不安論を提出している。その特徴を簡略化していうと、不安とは危険についてのシグナルのようなものであり、それの処理に失敗すると具体的な症状となって現れる、というものだった。症状と制止とは、基本的には同質の現象であって、危険に対して自我の機能を停止(たとえば対象の回避や無視といったもの)させることが制止、危険が制御できず、自我の機能の一部がこわれると症状となってあらわれるとする。

この論文で、フロイトが不安を引き起こす原因としてもっとも重視しているのは、エスから発せられる衝動である。その衝動は基本的には性的なものである。だから、フロイトの不安論は、性的リビドー論の一つのバリエーションにもなっている。それに対してランクの不安論は純粋に生物学的・生理的なものであって、性的な要素が入り込む余地はほとんどない。そこがフロイトにランクを物足りなく思わせた原因だと思う。フロイトにとっては、人間の心理的なプロセスは、基本的には性的な体験に根ざしている。人間はなによりもまして「性的動物」だというのがフロイトの基本的な立場なのである。

こんなわけでこの論文は、もっぱら人間の心理的な生活に焦点を当てており、人間と社会との関係は表面化していない。性的な衝動を抑圧しようとする働きには、愛する親との関係など対人的な要素がからんでいるのではあるが、とりあえずこの論文の扱う対象は、狭い対人関係の枠に収められている結果、広い社会関係は視野に入ってこないのである。


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