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フロイトの攻撃衝動論


文化とは、動物とは異なった人間固有の事象である。それは二つの目的を有している。一つは自然に対する人間の防衛、もう一つは人間相互の関係の規制である。この二つが組み合わさって文化の体系が形成される。自然に対する人間の防衛は、個人としては無力な人間が集団を作ることによって強化される。人間は本来弱いものだから、その弱さを補うために集団を作らざるを得ないのである。一方人間相互の関係については、人間は本来利己的な生きものであり、互いにとって互いが狼である。それでは集団は維持されない。そこで、集団を維持するためのさまざまな工夫がなされる。それは個人を集団につなぎとめるための工夫だが、その工夫の総体が文化の内実となるのである。

集団が個人をつなぎとめるにあたって大きな障害となるものがある。性愛と攻撃衝動である。性愛は本来極めて個人的な事柄であるから、集団とは対立しがちである。そこで集団は個人の性愛をなるべく限定的な範囲に閉じ込めようとする。一夫一妻制はその代表的なものである。個人の性愛を野放しにしていては、個人のエネルギーのほとんどは性愛のために費消されてしまい、集団維持へとは向かない。そこで、性愛そのものは許容しつつも、というのは性愛は強制力によって抑圧できるようなものではないからなのだが、その性愛を一夫一妻制のうちに限定することで、集団維持のための余力を保とうというわけである。

一方、攻撃衝動のほうは集団維持にとってもっと大きな障害となる。攻撃衝動も性愛同様人間の本性に根差しているとフロイトは考えている。人間はもともと性愛の衝動と攻撃の衝動からなっているようなものなのだ。そのうち性愛は、すくなくとも小さな人間関係の範囲においては人間を互いに結びつける働きをするが、攻撃衝動のほうは、人間同士を対立させる。そのあげくに、集団を破壊するような作用をする。だから、いかに攻撃衝動を抑えるかが、集団の維持にとって死活的な問題となる。「悪への、つまり攻撃や破壊への傾向、したがって、残虐性への傾向さえも人間は生まれながらにもっている」(「文化の中の不安」吉田正己訳)のであって、その「衝動的な情熱は、理性的な利益よりも強力なのである」。したがってそうした衝動を抑止するためには独自の文化的装置が必要になる。それをフロイトは「社会的罪悪感」と呼んでいる。個人の「良心」に相当するものである。良心は個人の超自我の産物だが、社会的罪悪感は集団的超自我の産物である。

その罪悪感は個人に対して、「汝隣人を愛せよ」とか「汝の敵を愛せよ」といった命令をつきつける。個人は本来敵を愛せるようにはできていない。だから、この言い方には、誇張というか欺瞞があると言えるのだが、このスローガンで言いたいことは、要するに、互いに攻撃しあうのをやめろということだ。だが、人間はそうした命令に喜んでしたがうようには作られていない。したがってそういうスローガンを叫ぶだけではなく、攻撃衝動の発露が個人に対して罰をもたらすように仕組まねばならない。掟とか法とか呼ばれるものは、大部分がタブー意識に起源をもつものだが、そのタブー意識は人間を集団につなぎとめるために働くのである。

とはいえ、攻撃衝動はあまりにも強力であるから、それを抑制することは非常にむつかしい。そこで集団の結束を高めるためには特別の工夫が必要となる。もっとも手っ取り早いのは、集団に共通する敵を作ることだとフロイトは言う。敵には集団の外部の敵と集団の内部にいる敵とがある。外部の敵はわかりやすい。外部の敵との関係は戦争の場合もっとも先鋭化する。戦争は集団を一致団結させ、共通の敵に向かって戦うように導いていく。だから、集団の結束が弱まったり、あるいは権力への抵抗が強まったりすると、集団の指導者は集団の外部の敵を可視化させ、それとの戦争へと成員を導いていく。これは人類史に普遍的な現象なのである。

内部の敵とは、たとえばヨーロッパ諸国に散在するユダヤ人の如きものである。ユダヤ人を集団の成員共通の敵として可視化させることで、その集団の結束は強まる。ユダヤ人は典型的なケースであって、それ以外にも内部の敵はいくらでも作り出せる。さまざまな点で弱いとみなされたものは集団からはじき出され、敵としての烙印を押されやすい。いわゆるいじめ問題は、その矮小化された現象であって、集団というものは基本的に、内部に敵を作り出すことによって成員間の結束を強めようとする傾向を持っている。いじめがなかなかなくならないのは、それが集団の本性に根差しているからだ。

現代の日本社会でも、集団が敵を作り出すという構図はあてはまっている。日本という国を集団の単位と見た場合、その外部の敵は中国であったり朝鮮半島の政権であったりする。内部の敵としては、在日外国人が典型的なものだが、日本人同士でもそうした関係は成立する。障碍者や性的マイノリティなど社会的に弱い者に対する差別・攻撃は日常的に見られるし、もっと規模の小さいものとしては、学校や企業でのいじめが横行している事実がある。最近おきた相撲協会の白鵬へのいじめなどは、人種問題とか価値観の相違がからんで、かなり複雑な様相を呈しているが、要するに集団内部に敵を作って成員の結束を高めめるという目的に奉仕しているといえる。

このようにフロイトは、攻撃衝動を人間の本質的な傾向と見るから、社会制度や教育を通じて簡単に矯正できるものとは考えていない。そうした立場からフロイトは、共産主義が人間性を解放し、したがって人間相互の間の暴力もなくなるだろうと主張するのは根拠がないと考える。共産主義は、人間の暴力とか攻撃性は財産の取得を目的としているから、その財産がすべての者にとってアクセス可能になり、私的所有がなくなれば、おのずから財産の取得を目的とした暴力の行使もなくなるだろうと考えたわけだが、フロイトによれば、「攻撃は、財産によってつくりだされたわけではない。財産がまだきわめて貧弱だった原始時代には、攻撃がほぼ無制限に支配していた」のである。しかがって私有財産の廃止は攻撃衝動の消滅には結びつかない。攻撃衝動は人間性に本来的に根差した傾向なのであって、財産とは必然的な結びつきを持たないのである。

フロイトがこう言うのは、おおそらくかれのユダヤ人としての自己意識のためだと思う。ユダヤ人にとって財産は自分の命の一部であり、それが廃絶されることは、ユダヤ人としてのアイデンティティが否定されることを意味する。だから共産主義は、それが私有財産の廃止を意味するかぎり、ユダヤ人にとって受け入れられるものではない。もっともユダヤ人が共産主義を全面的に否定するものではないことは、イスラエルにおけるキブツの実践が示している。キブツはユダヤ人に古来伝わる原子共産主義の理念を現代において実現したものである。だからユダヤ人としてのフロイトがこだわるのは、財産そのものである。財産が廃止されないかぎり、共産主義も受容できる。もっとも財産の所有を前提とした共産主義のモデルが成り立つのかどうか、それは別の問題ではあるが。いずれにしてもフロイトは、財産と攻撃性との関連を断ち切ることで、ユダヤ人の財産への熱望を合理化しようとしたと言えなくもない。

なお、フロイトの攻撃衝動論が、20世紀初頭における暴力の蔓延に触発されていることは十分見て取れると思う。その暴力は第一次世界大戦となって爆発する一方、ヨーロッパ諸国での少数民族、とくにユダヤ人やロマ人への迫害となって現れた。ナチスによるユダヤ人迫害はまだ可視化されてはいなかったが、反ユダヤ感情はヨーロッパ諸国で高まっていた。そうした空気がフロイトを動かして、攻撃衝動について深く考えさせたのであろう。


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