知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルの弁証法


ディアレクティックという言葉を、カントもヘーゲルも自分の哲学のキーワードとして使ったが、その使われ方はかなり異なっている。そのことから日本語では、それぞれ違う訳語が割り振られるのが普通である。すなわちカントの場合には「弁証論」、ヘーゲルの場合には「弁証法」という具合に。そんなところから、日本の読者の大部分は、この二つがもともと同じ言葉、同じ概念を現していることになかなか気が付かない。

カントはディアレクティックを「仮象の論理学」と言っているように、どちらかというと否定的な意味合いで用いている。人間の精神的な働きには、知性(悟性)を超えた理性の働きがあって、その理性が生み出す理念には経験の裏付けを持たない純粋に観念的な概念がある。それをカントは仮象と呼び、その仮象の生まれてくる理由と、その限界について論証するのがディアレクティック(弁証論)の役割であるとしている。

仮象は経験の裏付けを持たず、純粋に観念的なものであるから、或る主題について、相互に背反する言説をすることもある。その代表としてカントがあげているのが、アンチノミー(二律背反)である。

アンチノミーとは、ある主題について、肯定と否定とを同時に行うことである。例えば、宇宙の起源について、一方では宇宙には始まりがあった(宇宙は有限である)といい、他方では宇宙には始まりはなかった(宇宙は無限である)という。これらは相互に矛盾した命題であるから同時に成り立つことはない。しかしその論理的に矛盾する命題がどちらもまともらしく見える。そこに仮象の面白さがある、とカントはいうのである。

ところでこのアンチノミーは、一つの主題に二つの言説(ここでは肯定と否定)が関わっていることがわかる。このように、ある事柄について、複数の言説をかかわらせ、そうすることによって、問題を多角的な視点から考察することを、哲学史のタームではディアレクティックという。ディアレクティックとはディア(ふたつの)、レクティック(言説)という意味であり、ある事柄について、複数の視点からとらえることを意味しているのだ。

カントが、アンチノミーを含め理性の仮象を論じることをディアレクティックと名づけたのは、人間の認識の限界を明らかにするためであった。人間の理性は、たとえば宇宙の起源とか、霊魂の不滅とか、とかく形而上学的なテーマについて云々することが好きだが、それらの命題の殆どは、肯定もでき、同時に否定もできると言った性格のものだ。何故そうなのか。それは、もともと経験に基づかず純粋に観念的な概念に、経験的な意味での存在性格を付与しようとするからだ。つまりカントによれば、宇宙とは所詮人間の意識の相関者としての現象の総体に過ぎない。あくまでも現象であって、物自体ではない。この物自体ではないものをあたかも物自体として論じようとするから、アンチノミーのような矛盾が生まれるのだ。そうカントはいうのである。

こうみればカントの議論は、ソクラテスのディアレクティックを否定的な方向で活用していることがわかる。しかし、それはソクラテスの意向に沿ったやり方とは言えないだろう。ソクラテスにとっては、ディアレクティックとは、真理を明るみに引っ張り出す手段であったはずだ。ある事柄について、一面的な見方だけではなく多面的な見方を示すことによって、事柄の奥に潜んでいる真理を明るみに出す。これがディアレクティックの役割である。そうだとすればソクラテスにとって、ディアレクティックは人間の認識を拡大するものであるはずだ。ところがカントのやったことは、人間の理性に限界をもうけることだったわけである。

ヘーゲルは、ソクラテスの立場にそっくり立ち返ったというわけでもないが、少なくともディアレクティックを積極的に用いようとした哲学者である、という点ではソクラテスの後継者だといってもよい。彼は、ソクラテスによって提起されながら、その後カントも含め多くの哲学者によって正当に評価されなかったディアレクティックの意義を、積極的に評価し直した最初の哲学者なのである。

では、ヘーゲルのディアレクティック(弁証法)の神髄はどこにあるか。

ソクラテスにおいては、弁証法的な方法とは、相手の言説をまず否定することであった。相手の主張を一旦否定することで、それを相対化させ、そのうえで最初の肯定でもなく、その単純な否定でもない、第三の言説、つまり肯定と否定の統一ともいえる言説を導き出す、そういうやり方であった。ヘーゲルがソクラテスから受け継いだのも、基本的には同じものである。ヘーゲルの弁証法も、否定、分裂、統一といったものを中心にして動いていくのである。

しかし、ヘーゲルの弁証法とソクラテスのそれとでは大きな相違もある。ソクラテスの場合には、ディアレクティックは真理発見のためのひとつのテクニックであった。その陰には、真理というものは自分からは姿を現さず、人間の討論を通じて明るみに引っ張り出されるものだとする見方がある。その討論のもっとも理想的なテクニックがディアレクティックだったわけである。

ヘーゲルの場合には、ディアレクティックは討論のためのテクニックなんかではない。それは、人間の認識活動のあり方そのものである。つまり人間の認識活動そのものがディアレクティックにできているのである。対象について、一面的な視点からだけではなく、多面的な視点から見る、そうすることで対象を立体的かつ有機的な全体像に仕上げていく、人間の認識活動は、その場その場で完結する単純なものではなく、過程としてとらえられるべきものである、その過程の全体から真理は現れる。部分ではなく全体の中に真理はある。そうヘーゲルは考えるのだ。

他方では、認識の対象の方もやはりディアレクティックな存在性格を帯びている、とヘーゲルはいう。例えば植物についていえば、種がまかれてそこから芽が出、芽が成長して茎や葉や花となり、再び種にもどる。これを言い換えれば、種が否定されて芽が生成し、芽が否定されて茎や葉や花が生成し、茎や葉や花が否定されて再び種が生成するが、この場合にはこの過程の全体を差してわれわれは当該の植物と云うのであって、個々の部分だけを取り出していうのではない。個々の部分はそれ自身としては否定される運命にあるのだ、だがその否定から新たな統一が生まれる、そのプロセス全体が当該植物の真理なのだ、というのである。

このように、人間の認識活動と、その対象と、両者にわたってディアレクティックが貫いて作用している。何故そうなのか。それは人間の認識活動も、その対象としての世界も、ともに絶対精神が自己疎外をし、外化した形で現れたものだからだ、とヘーゲルは応える。絶対精神そのものがディアレクティックな存在であるからこそ、個別の人間の認識作用も、それが対象とする世界も、ともにディアレクティックであることは当たり前のことなのだ。


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