知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルにおける時間と空間


時間と空間とは、対象的な世界が纏っている根本的な形式であると同時に、我々人間の認識活動を制約している根本的枠組でもある。それ故西洋の哲学の歴史にあって、時間と空間とは存在論の根本観念であったし、デカルト以降の近代認識論にとってもキーとなる概念であり続けた。

その時間と空間とをカントは、直感の形式であると捉えた。直観とは、感覚を通じて対象を直接に把捉する働きのことを言うが、この働きの中で現れる対象は、時間と空間という枠組に当てはめて把捉される。この枠組は、我々人間の直感能力の中にアプリオリに備わっているもので、どんな対象もこの枠組に収まることで認識可能なものとなる。逆に言えば、時間と空間という枠組に当てはまらないものは直感の対象とならないし、したがって客観的な存在性格を持つこともできない。客観的な存在とは、直感を通じてもたらされるもの以外にはないから。そうカントは考えたのであった。

では、ヘーゲルにとって、時間と空間とはどう考えられていたのか。ヘーゲルにおいても、時間と空間とが直感との関係において論じられている点では、カントと大差はない。精神現象学では、冒頭の「感覚的確信」のところで時間と空間がもっぱらに論じられているが、感覚的確信とは直感のことをヘーゲル流に言い換えた言葉なのである。

ヘーゲルは、時間と空間とが直感能力のうちに備わったアプリオリな形式だなどとは考えない。また、対象の方に備わった外的な(人間の認識とは独立した)形式だとも考えない。ヘーゲルはそれを、人間の認識活動における、主観と客観、主体と対象との、絡み合いの運動だと見ている。そしてこの運動は、弁証法的な性格をもっている、とヘーゲルは言う。ヘーゲルにあって、時間と空間とは、弁証法的な運動が、人間の認識活動のうちに現れる最初のケースなのである。

さて、感覚的確信のことをヘーゲルは、「もっとも抽象的で、もっとも貧しい」認識だと言っている。これは、直感こそがもっとも具体的で、もっとも豊かな内容を含み、したがって人間の認識作用の土台をなすものだと考えたカントとは対極的な見方である。ヘーゲルは直感を、認識活動の始まるスタート地点とは認めたが、土台だとか、基礎だとかは認めなかったわけである。

感覚的確信は、なにものかが「ある=存在する」ということから始まる。何者かがある、それはただあるからある、とにかく存在する。そこから始まるのだ。そのことをヘーゲルは次のように言っている。

「事柄はあるのであり、あるからあるのであって、感覚的な知にとっては、あることが本質的なことであり、純粋に、単純に、直接にあることがその真理をなすのだ。同様に、確信という対象との関係も、直接の、純粋な関係である。意識は自我であり、純粋な"この人"にほかならない。この個人が純粋な"このもの"を~個物を~知るのである」(「精神現象学Ⅰ、感覚的確信」長谷川宏訳、以下同じ)

こういう言葉を聞かされると、ヘーゲルがいかに存在論の復活にこだわっているか、行間から漏れてくるようだ。

そこで、存在する「このもの」をよくよく見ると、それは「いま」あると「ここに」あるとの二つに分けられることがわかる。つまり最も端緒的な存在である「このもの」は、時間と空間という形を取っているわけだ。

この時間と空間とは、カントが想定したような静的な枠組ではない。それは弁証法的な運動をする運動体なのだ。そういってヘーゲルは独特の時空論を展開していく。

まず、「いま」あるということから。

わたしは「いまは夜である」という。また違う時点では「いまは昼である」という。「いまは昼である」といっている時点では、夜である「いま」は存在しない「いま」となっている。しかし「いま」そのものは持続している。持続はしているのだが、夜ではなく昼として持続している。そのように持続している「いま」は、直接の存在ではなく媒介を経た存在である、とヘーゲルは言う。

「"いま"は夜でも昼でもないが、また、昼にも夜にもなれるのであって、自分以外の存在である昼や夜にかかずらわないのである。否定によって生じるこうした単一の存在~これでもあれでもないような不特定なもので、しかもこれにもあれにもなれるような単一の存在~を、わたしたちは一般的な存在と名づける。つまり、一般的な存在こそが、実は、感覚的確信の真理なのだ」

このように感覚的確信というものは、(カント的な意味合いでの)一時的な(静的な)直感にとどまるものではなく、一般的な存在に向かっての運動を含んでいる。この運動の全体こそが、感覚的確信の本質なのだ、ということになる。

この運動をヘーゲルは、次のように要約する。

「一、 わたしが"いま"を示し、それが真の"いま"だと主張する。が、示されるのは"いま"であったもの、もう"いま"ではないものであって、ここに第一の真理が破棄される。
「二、 いまや第二の真理として、わたしは"いま"とは"いま"であったもの、もう"いま"ではないもののことだと主張する。
「三、 が、"いま"であったものはいまはない。だから、"いま"であったもの、もう"いま"ではないもの、といった第二の真理が破棄され、かくて、"いま"の否定がもう一度否定されて、"いま"はある、という最初の主張へともどることになる。」

最初に立てられた命題が否定され、その否定が更に否定されることによって、最初の命題に戻る、というこの言説を言い換えれば、定立、反定立、統一、ということになる。つまりヘーゲル弁証法のエッセンスをいっているということになる。時間をめぐる論議は、ヘーゲル弁証法の端緒をなす議論なのである。

空間についても、"いま"を"ここ"に置き換えるだけで、ほぼ同じような議論が成立する。「一日がたくさんの"いま"を含む単一体であるように、一般的な"ここ"は、たくさんの"ここ"を含む単一体なのである」

以上を踏まえてヘーゲルは、「感覚的確信の弁証法とは、感覚的確信の運動と経験の単一な歴史にほかならず、感覚的確信とはこの歴史以外のなにものでもない」と言っている。そしてこの歴史から生まれてくるのは一般的な概念なのであるが、それを目の前にしたとたんに、我々の知は感覚的確信を超えて「知覚」の段階に入る、とヘーゲルは言って、意識の経験をさらに先へと進めるわけなのである。


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