知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルにおける自立存在(対自存在)と他に対する存在(対他存在)


ヘーゲル精神現象学における中心的な概念に、対自存在(Fürsichsein)、対他存在(Sein für ein Anderes)という一対の概念がある。これは長谷川宏訳ではそれぞれ「自立存在」、「他に対する存在」と訳されているが、日本のヘーゲル学者の間では、「対自存在、対他存在」の方が通りがよい。

これは、もともとは、主観とその対象との関係に着目した概念だ。対象が主観に対して見せる側面、それをヘーゲルは対他存在と名づけた。この場合の他者とは、対象にとっての他者たる主観的な意識をさしているわけである。それとは別に、対象が対象自体としてあるあり方、意識とは無関係にあるあり方を、ヘーゲルは対自存在と呼んだ。そしてこれら二通りの存在態様が、始めは相互に無関係に見えながら、その実弁証法的な相互関係にあることを、ヘーゲルは立証するわけである。

この一対の概念(対自存在と対他存在)は、「知覚」のところで登場し、その後精神現象学全体にわたって出て来るのであるが、これが「はしがき」の中で述べられていた「知」と「真理」に対応するものであることは容易に知れる。「はしがき」では、対象が意識に対して見せる側面を「知」とし、対象そのものが自律的に存在しているあり方を対象の本質とか「真理」といっていた。それ故、知と対他存在、真理と対自存在とが、一定の対応関係にあるのだといえる。

だがこの二組の概念は、同じように見えて、必ずしも同じではない。つまり完全に覆いあっているわけではない。それは、知と真理の対立があくまでも意識とその対象との関係に留まるのに対して、対自存在と対他存在の対立は、意識と対象との対立をこえて、対象そのものに内在する対立であると考えられているからである。

知と真理とは、相互に依存関係にある。真理を度外視した知はナンセンスであり、知から遊離した真理もありえない、というより真理とは知の影のようなものなのである。したがって知の内実が変化すれば真理もまた変化する。絶対不変の真理が一方にあって、知がそれとの一致を目指して齷齪するというような、単純なものではない、とヘーゲルは考える。

対自存在と対他存在もまた、そのような相互依存の関係にある。対自存在とは、対象がおのれ自体としてあるあり方である。それは対象が「一つ」の物であることを意味している。これに対して対他存在は、対象が意識に対して示すあり方である。意識にとっては、対象はとりあえず、様々な性質を持ったものとして現れる。そのかぎりで「多」としての存在である。

この関係の中では、「一」は対象に帰せられ、「多」は意識の方に帰せられるというように見える。しかしよくよく見ると、その逆のようでもある。つまり多様なのは対象の方なのであり、それを一つとして見るのは意識の働きなのではないか、という具合に。

というわけで、ここでもヘーゲル独特の弁証法運動が生じるということになる。この弁証法運動の中では、対象も意識も、一になったり他になったりを繰り返しながら、次第に高度な認識へと高まっていく。その挙句、一と他の統一こそが意識と対象双方にとっての真理だということになる。

「このようにして、対象はその本質をなすとされる純粋な性質を破棄するとともに、感覚的存在を超えるものへと上昇もしたのである。感覚的存在から出てきている以上、感覚的な制約のもとに置かれざるを得ず、したがって、真に自己同一の存在ではなく、対立に付きまとわれた一般的存在~性質の単一性という個別の極と、どこにでも転がっている物質の共存という普遍の極に分裂した一般的存在~である。物の純粋な性質は物の本質をあらわすかに見えるが、その自立性は、他に対する存在と切り離し得ない自立性なのだ。が、この二面がその本質にふさわしい統一へともたらされるときに、そこに、無条件で絶対の一般的存在があらわれてくるので、こうして意識ははじめて本当に知性の領域へと足を踏み入れるのである」(長谷川宏訳「精神現象学、知覚」)

ここでいう、無条件で絶対の一般的存在とは、とりあえずは、対象と意識とをともに包み込んだ高度の認識のあり方をさしているのだが、それがさらに展開されていくと、意識も対象も、もともと別のものではなく、同一のものが自己疎外をして個別化した姿に過ぎないのだ、という主張に高まっていくわけである。その同一のものとは、ヘーゲルによれば絶対精神のことなのである。

以上のヘーゲルの議論が、伝統的な哲学における、実体―属性関係の議論に対応していることは容易にみてとれる。伝統的な議論では、実体―属性関係を存在論の一環として議論するのが普通であった。デカルト以来の認識論優位の哲学にあっても、実体は存在の本質をなすものとして受け取られてきたので、存在論的な意味での実体―属性関係の議論は成り立ったわけである。

ヘーゲルの場合には、実体―属性関係の議論を、存在論の領域に閉じ込めない。伝統的哲学にあって存在とは、意識とは独立した客観的な世界というイメージをもっていたわけだが、ヘーゲルはそういう思考の枠組自体を取り払う。存在は意識から独立した客観的な存在なのではない。それは意識との深い相互関係の中で初めて全容をあらわすようなものなのである。

何故なら、意識も存在も本来別のものではない。先述したとおり、絶対精神が自己疎外を通じて個別化したものである。それ故、意識と存在とが深い相互関係にあるのは当たり前のことなのだ。その当たり前のことを、伝統的哲学は無視して、存在を恰も意識から独立した客観的な実在であるかのように論じてきた。自分はそうした論じ方に潜んでいる誤謬を指摘しているのだ。そうヘーゲルは言いたげなのである。


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