知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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現存在:ハイデガー「存在と時間」を読む


「存在と時間」の本論第一部は、現存在の予備的分析から始まる。現存在の予備的分析を通じて、存在者の存在についての問いに、一定の見通しを得ることがその目的だ。現存在を分析することで、存在への問いへの見通しが得られるというのは、現存在が特別の存在者として、つまり人間として、世界についての一定の了解(存在了解)をもっているからであり、その存在了解から出発して、そこに現われる存在者の様相を掘り下げて分析すれば、存在者の存在が明瞭に浮かび上がってくるにちがいない、そうした見通しがあるからだ。その見通しは根拠のないものではない。何故なら、哲学というものは、人間の行う営みなのであり、その人間の営みというのは、人間にとって利用できる前提から出発するものだからだ。その前提とは、現存在つまり人間の持っている存在了解のことだ。デカルトのように、意識によって存在を根拠付けるのではなく、存在了解という事実から存在を導き出す、それがハイデガーの基本的な立場である。

この現存在の本質としてハイデガーは、とりあえず次の二つの点をあげている。一つは、エッセンシアに先立つ「エクシステンシア」の優位性、もう一つは、各自性である。エッセンシアとエクシステンシアの対立は、中世存在論の重要な論点だったわけだが、ハイデガーはとりあえずその対立を用いて、現存在をエクシステンシアの範疇に含めつつ、エクシステンシアつまり事実存在が、エッセンシアつまり本質存在に先立つと言うわけであるが、しかしこのように言うと、人間という存在者と普通の事物としての存在者との区別があいまいになるので、人間には特別にエクシステンツ(実存)というハイデガー独自の造語をあて、その言葉で人間=現存在の存在性格を特徴付けたのである。

現存在の各自性というのは、現存在はそのつど、わたしのあるいは誰か特定の人の存在だということを意味する。存在一般ではなく、わたしあるいは誰か特定の人の存在が問題なのだということは、現存在とは個々人それぞれの、自分に固有な、かけがえのない存在なのだということを意味する。このように、人間一人一人のかけがいのない独自性(それをハイデガーは各自性というわけだが)を前面に掲げるのは、おそらくキルケゴールに大きく影響されてのことだろう。キルケゴールは、水平化された大衆の一員としてではなく、かけがいのない、唯一無比の個人として、神に直面することを求めたわけだが、ハイデガーは、神こそ持ち出さないまでも、人間一人一人の独自性・各自性を強調するのである。

キルケゴールに言及したついでに、キルケゴールの水平化とハイデガーの日常性を比較してみたい。キルケゴールにとって水平化とは、個々人が自分自身の本質的なあり方に目をつぶり、大衆の一員として、没我的にふるまうことを意味した。したがってあくまで否定的で、乗り越えなければならない性格のものだった。この水平化に対応するハイデガーの概念は、日常性とか非本来的といったものだが、こうした概念をハイデガーはかならずしも全面否定するわけではない。かえって、そうしたあり方は現存在の本質に根ざしているとして、積極的に評価することもある。「現存在の非本来性は、『より少ない』存在とか、『より低い』存在の程度とかいう意味ではありません。むしろ非本来性は、現存在の多忙、興奮、熱狂、興味、享楽という点で、その最も充実した具体性を追って、規定することができるのです」

要するに、現存在の日常的なあり方こそが、とりあえず現存在の存在了解を反映しているのであって、我々はその存在了解を掘り下げることを通じてしか、存在の意味を解明することはできない、とハイデガーは考えたのだと思う。

現存在分析のこの部分でキルケゴールを引っ張り出したのは筆者の独断であって、ハイデガー自身はキルケゴールには言及していない。そのかわりに彼が言及しているのは、ディルタイやベルグソンなどいわゆる生の哲学といったものだ。生の哲学も、人間の具体的な生き方を哲学の前提として取り上げ、その限りではハイデガーと似たところがあると、ハイデガー自身も認めているようなのだが、しかし自分と彼らとでは根本的な違いがあるとも言っている。それは、簡単にいえば、生の哲学も、人間の存在を「目の前存在」つまり人間の認識の対象として捉え、その点で自分の主張する現存在の本質的あり方とは異なっているというのである。

ハイデガーはまた、シェーラーやフッサールの人間観にも言及している。ハイデガーは、シェーラーのいう人格が、実体的な存在ではなく「体験された体=験の統一」であるとして評価し、またフッサールについては、人間の心的作用を、実体(精神的存在)とは切り離し、あくまでも意識の志向作用としての働きとして捉えたことを評価している。しかしその評価はそんなに高いものではない、ということが文章の行間から伝わってくる。その理由をハイデガーは明示していない。その理由を明らかにするには、それなりのエネルギーを要するし、いまここでそれを積極的に行うつもりはないとうそぶいているようだ。

ハイデガーが明示的に言っていることは、彼が批判する人間観が、ギリシャ的な考え方とキリスト教神学に毒されているということだ。これも、さらりと言っているだけで、詳細に言明しているわけではない。次のように言うだけだ。「伝統的人間学にとって重要な根源、すなわちギリシャ的定義と神学の導きの糸とは、『人間』という存在するものの本質規定について、その存在への問いが忘れられたままで、むしろこの存在は、その他の被造物が目の前にあるという意味での『自明的に』解されていることを示しています。この二本の導きの糸が、思考するもの、意識、体験連関という方法的出発点をもっている近代の人間学において絡み合っているのです。しかもまたこの思考存在も存在論的に無規定のままであり、ないしはさらに、何か『与えられたもの』としてはっきりしないままに『自明的に』考えられて」しまっている、と。

ハイデガーは、存在への問いを提起するに当たって、その問いを解く手がかりとして、現存在つまり人間を持ち出すわけだが、その人間について、伝統的な偏見がまとわりついている。だからその偏見というか、誤った前提を正した上でないと、折角の手がかりもかえって進路を誤らせることになりかねない、そうハイデガーは言いたいわけであろう。

なおハイデガーは、現存在という言葉に関連して、「原始的な現存在」という耳慣れない言葉を持ち出す。この言葉はどうも、未開人と言われる人々をさしているらしい。ハイデガーがこの言葉を持ち出すのは、現存在の日常性と原始性とは異なるのだと主張するときなのだが、何故現存在の日常性と現存在の原始性とがこのようなかたちで比較されるのか、いまひとつすっきりしないところがある。





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