知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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世界の世界性:ハイデガー「存在と時間」


世界内存在としての現存在にとって、世界はどのような現われ方をするか。ハイデガーはまず、現存在とそれ以外の存在するものとのかかわりについて注目する。伝統的な考え方では、主観としての人間と客観としての対象とが向き合い、主観は認識の作用を通じて対象を捉える。その認識の作用は、対象を、基本的には見られるものとして捉える。そこから対象の目の前存在としての規定性が導き出される。世界とは、そのような目の前存在の集合として、認識主体たる主観に対立する、そのような構図になっていた。ハイデガーはそのような構図を根本的に見直す。ハイデガーによれは、現存在にとって、存在するものは、まず道具として現われるというのである。

道具というのは、本質的には「なにかのためのなにか」である。つまり、それ自体で孤立した存在ではない。「なにかのため」という連関の中で始めて意味を持つ。「道具があるということには、いつも道具全体が属していて、そのなかでこそこの道具が、そのあるままにありうるのです」というわけである。現存在にとっての環境世界とは、この道具が織り成す連関のことにほかならない。世界とはだから、目的・道具連関が織り成す体系だともいえる。

道具とは、単に観想の対象としてのあり方ではなく、現存在がそれを以てなにかをするためのものである。つまり見られることではなく、用いられることを本質的な属性としている。現存在は、いつでもこの道具に働きかけ、それを用いてなにかをなそうとする。その場合、道具は現存在によって用いられるべく、現存在の手もとにあるという存在性格を持たされている。単に目の前にあるのではなく、手もとにあることで、道具はいつでも現存在によって有意義な、つまり目的にかなった使われ方をされる。これをハイデガーは適在性と呼んでいる。適在性とは、ある存在するものが、その存在に相応しいあり方をしているという意味である。道具にはすべて、個々それぞれに相応しい存在のあり方があるものなのである。

道具として存在するものへの現存在のかかわり方は、配慮という形をとる。目の前存在として見られるだけのものなら、現存在はせいぜい熟視という形でそれにかかわるだけだが、道具としての手もと存在においては、つねにそれを有意義に用い、それによってそれに適在性を与えてやらねばならない、その現存在のかかわり方を配慮というわけである。だから配慮とは、存在するものに適在性を与える働きといってよい。

存在するものの道具としての存在性格と、それに配慮という働きを通じてかかわりあう現存在とのからみあいを、ハイデガーは微に入り細を穿って解明しているが、煩雑にわたるのでここでは触れない。一つ見逃せないのは、この絡み合いの中から空間の概念が導き出されてくるプロセスである。現存在は、配慮の働きのひとつの現われであるところの見回しを通じて道具とかかわるが、この見回しということには、方位とか場所といった概念が付属している。そうした見回しの作用からおのずから空間という概念も現われてくる。ハイデガーはそう言うのだ。つまり空間というのは、現存在の働きである配慮の相関者としての位置づけを持たされるわけである。その意味で、空間は主観の側の認識のためのアプリオリな枠組みだとしたカントの見方に近いわけだが、空間を主観に内在させるのではなく、主観としての現存在が道具としての存在者と出会う場所だとする点では、カントとは違う。その違いについてハイデガーは次のように言う。

「空間が主観のなかにあるのでもなく、また世界が空間のなかにあるのでもありません。空間はむしろ、現存在を構成している世界・内・存在が空間を開示しているかぎり、世界の『なかに』あるのです。空間は、主観のなかに見いだされるのではなく、また主観は世界を『あたかも』それが空間のなかにある『かのように』見なすのでもなく、存在論的に十分に了解された『主観』つまり現存在が、空間的なのです。そして現存在は右に述べた仕方において空間的であるから、空間がアプリオリとして現われるのです。この{アプリオリという}名称は、空間というものを自分から外へ抛り出すような、さしあたりまだ世界をもたないような或る主観へ予め帰属しているといことをいうのではないのです。アプリオリであること{先天性}とはここでは、手もとのものが時おりの環境的に出会う働きにおいて、空間が方位として出会う働きが<先行していること>を意味するのです」

この言い方だと、空間は現存在の主観のなかにはないが、しかし現存在そのものを前提としている、ということになる。現存在の空間性が、空間の根拠だと言っているわけだから。

以上を通じて浮かび上がってくるのは、世界とは現存在が他の存在者と出会い、かかわりあう場所だということになるが、その存在者とは基本的にいって、目の前存在としての見られる対象ではなく、道具として働きかけるものであった。働きかける目的は、何かを作ることである。道具というのは、無論遊びの道具ともなりえるが、基本的には制作に用いるものである。ハイデガーはだから、現存在すなわち人間の本質を、制作する動物だと見ている、と言えるのではないか。制作という行為を通じて現存在は、世界に存在するものと道具連関的にかかわりあうとともに、他の現存在ともかかわりあう。物をつくるというのは、自分だけではなく、他人もそれを使用することを前提としているからだ。ここから共同現存在の議論につながってゆくわけだが、それについては別のところで論じたい。

人間の本質をものの制作に見るという視点は、プラトンに似ているのではないか。プラトンは、人間の認識作用との関連で、ものの制作のプロセスを考えた。ものを作るときには、あらかじめその完成形のイメージが心の目で見られていなければならない。それをプラトンはイデアといったわけだ。そのイデアに導かれながら、個々の制作物が完成され目の前に現われる。だから個々の存在者は、イデアを模倣したということになる。この個々の存在者を事実存在として、またイデアを本質存在として捉え、本質存在を事実存在に先行させるというのがプラトンの基本的な立場であった。その立場はアリストテレスを通じて、中世の形而上学に受け継がれ、カントに至るまで西洋哲学の伝統的な考え方となってきたわけである。

ハイデガーは、「存在と時間」の全体構想のなかで、西洋哲学史を解体すると言っていた。その解体とは、基本的にはプラトン・アリストテレスに遡る伝統的な考え方を解体するという意味だったはずだが、その伝統的な考え方とは、存在の本質を人間の制作行為に基づかせるものだった。人間の制作行為に着目するところから、プラトン・アリストテレス以来のイデア論の伝統が生まれた。その伝統を壊すのが自分の意図だとハイデガーは言明しているのだが、実際に彼がやったことといえば、プラトンと同じように、人間の制作行為に基づいた議論をまず展開して見せたということである。これは、相手を批判しながら、当の相手と同じようなことを自分もしているということであり、その点では瞞着と言ってよい。したがって伝統哲学に対するハイデガーの批判は、根本的な批判にはなりえていないのではないか。

ハイデガーが「存在と時間」を途中で放棄したことについては、木田元はじめ色々な学者から様々な憶測が出されているが、根本的には、自分の批判する相手とほとんど同じことをやっていることの瞞着ぶりに、自分で気付いたからではないか。





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