知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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不安:ハイデガー「存在と時間」


「存在と時間」には、キルケゴール由来と思われる概念が多く用いられている。その最たるものが「不安」である。この概念をハイデガーは、情態性を論じる文脈の中で用いている。情態性というのは、世界・内・存在としての現存在の、自分自身についての存在了解を構成しているものであり、現存在はこの情態性を通じて、自分が世界のなかに投げ出され、そこ(ダー)において存在している(ザイン)ということを了解する。認識ではなく、了解である。人は(知的な)認識を通じて了解に至るのではなく、漠然とした了解をもとにして認識に至るように出来ているのである。

キルケゴールにおいて不安とは、人間が自分の生き方について抱く漠然とした感情である。キルケゴールにとって、人間としての本来的な生き方はキリスト者として生きることである。だが人間はキリスト者として生まれてくるのではなく、生まれたあとでキリスト者となるようにできている。それゆえ、どんな人間にとっても、非キリスト者としての時期はあるものだし、またキリスト者となった後でも、非キリスト者的な生き方をすることもある。そうした状態をキルケゴールは、人間にとっての非本来的な生き方と捉える。不安の感情は、この非本来的な生き方をしていることから生まれる。自分があるいは本来的な生き方をしていないのではないか、そうした漠然とした感情が、不安という形であらわれる、そうキルケゴールは捉えるわけである。

ハイデガーの不安の論じ方もだいたいキルケゴールと同じである。ハイデガーにおいても、人間には本来的な生き方があるとされる。ところが人間は往々にしてその本来的な生き方からはずれ、非本来的な生き方をすることがある。というより、人間というものは、日常性という形のそうした非本来的な生き方をするように、必然的にできているものなのだ。だが、この本来性から外れていることが、現存在としての人間に不安を呼び起こす。不安を通じて人間は、本来的な生き方にもどるように促される。その本来的な生き方とは、キルケゴールにとっては、単独者として神に直面することであったが、ハイデガーは神を持ち出したりはしない。そこが違うところだが、本来的な生き方への希求が、不安をかもしだす根本的な要因だとする点では、両者は同じ考え方をしている。というよりか、ハイデガーがその部分について、キルケゴールを模倣しているわけである。

ここで、ハイデガーによる不安の説明を聞いてみよう。ハイデガーはまず、不安の特徴を強く浮かび上がらせるために、恐れと比較している。恐れには、なにかある特定の対象がある。その対象に直接間接脅かされることで人間は恐れを感じる。ところが不安にはそのような特定の対象というものはない。「脅かすものがどこにもいないということが、不安の相手・対象を性格づけます。不安は、自分が不安がるその相手が何なのか、『知らない』のです」。ところがよくよく分析してみると、何か特定の対象はないが、不安があるということは、不安の相手が世界そのものであることを物語っているということが判ってくる。そこから更に、不安が不安がる相手は、その不安を抱いている現存在自身だということが開示されてくる。現存在が自分のあり方について不安がること、それが不安の本質だということがわかるわけである。そして、そうした不安が何故生じるか。その理由は、現存在が本来的な生き方からはずれて、非本来的な生き方をしていることを、漠然と自覚することにある。それゆえ、不安とは、現存在を非本来的なあり方から本来的なあり方に連れ戻す働きのことをいうわけである。

ハイデガーは言う、「不安が不安がるその『理由』は、不安が不安がるその『対象』すなわち世界・内・存在として、露われます。不安の対象と不安の理由とのこの自己同一性は、不安がること{不安の働き}そのものにまで拡がります。何故なら不安の働きは、情態性として、世界・内・存在の根本様式だからです。開示することと開示されたものとの実存論的自己同一性、すなわち開示されたものにおいて、世界が世界として、内・存在が単純化された、純粋な、投げられた存在可能として、開示されているということは、不安の現象でもって、ひとつの最も優れた情態性が、解釈の主題となった、ということを明らかにするのです。不安はこうして現存在を、『単独の自己』として単独化し、開示します」

つまり現存在としての人間には、不安が根本的な情態性として備わっているのであるが、その理由は、現存在が世界・内・存在であることに基づくというわけである。世界・内・存在としての現存在には、たえず非本来的な状態へと転落する傾向があるが、その傾向が必然的なものとしてあるがゆえに、そうした非本来的な状態から本来的な状態へと引き戻す為の自然にそなわったバネとして、不安の働きがあるというのである。「不安は、現存在を、『世界』におけるかれの転落的な没入{入りびたり}から連れ戻すのです。日常的な親密さは、崩れ落ちます。現存在は単独化され、しかも世界・内・存在としてそうなのです」

ここでハイデガーが「単独性」を強調しているのは、キルケゴールの影響がなさしめているのだと思う。キルケゴールの場合には、上述したように、人間が単独者として神に直面することこそ、人間としての本来的な生き方なのだとする宗教的な背景があるわけだが、ハイデガーにはそのようなものはない。では、人間は、単独者になることで、何に直面しようというのか。おそらく自分自身だというのがその回答だろう。それも本来的なあり方としての自分自身。しかし、その自分自身の内実は、この段階ではまだ十分に明らかになっていない。それは、現存在の時間へのかかわりが明らかにされて始めて開示されることである。

以上のように、不安というものは、世界・内・存在としての現存在の、本来的な状態から非本来的な状態への転落がきっかけとなって生じてくるものだが、「転落と公共性との優勢のもとでは、『本来的な』不安は、稀です」と、ハイデガーは言う。人間の中には一生不安を感じないようなものもたまにいるが、そうした人間は、公共性=日常性のなかに没入するあまり、その状態になんらの不都合も感じず、したがって不安にさいなまれることもないのである。そのような状態をキルケゴールは「絶望(=救いようのなさ)」と表現したが、ハイデガーにはどうやらそういう考えはないようだ。





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