知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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死への存在:ハイデガー「存在と時間」


人間は死すべき存在だということは、昔からわかりきったことだ。だが、そのわかりきったことを、西洋の哲学は表立って問題にしてこなかった。むしろ、人間にとって永遠とは何なのか、というような場違いな問題設定がなされてきた。プラトンのイデア論などは、ある意味そうした場違いな問題設定の典型だったと言えなくもない。なぜなら、イデアという永遠・不変なものを存在の本質とし、人間がそれにあずかることを問題として取り上げたことで、人間が死すべき存在だという厳然とした事実から、人間の目をそらし続けてきたからである。

人間が死すべき存在だという事実は、哲学ではなく宗教のテーマとなってきた。だが、西洋の宗教であるキリスト教は、人間が死すべき存在だということを人々に自覚させると言うよりも、むしろその事実を隠蔽する方向で働いてきた。というのも、キリスト教は、神の恩恵をこうむることで、永遠の存在にあずかれる、と人々に教えてきたのであるが、そうすることで、人間が死すべき存在だという事実から、人間の目をそらし続けてきたわけである。

こんなわけで、西洋思想の伝統にあっては、哲学にせよ、宗教にせよ、死の問題は脇へどけられてきた。正しい生き方をしようと思うなら、自分が死すべき存在であり、いつかは死ぬ運命にあるといったことは忘れるがよい。そんなことに拘っても何もいいことはない。かえって、死を忘れ、自分があたかも永遠の存在にあずかれると考えたほうが、人間としてはずっと気持ちがいいし、また社会的にも穏健というものだ。年中死のことばかり考えていては、人間としても、社会全体としても、ぎすぎすしてとげとげしい雰囲気が支配するだろう、というわけだ。

人間は死すべき存在だということを、哲学的命題として前面に打ち出したのは。おそらくハイデガーが始めてだろう。そのやり方があまりにもぶっきらぼうで、微妙な問題を取り上げるにしてはかなりがさつに見えたので、ヨーロッパ中の人々がびっくりした。非西欧人で、もともと死を忌避してこなかった日本人の目にも、ハイデガーのやり方は大胆に映じた。それほど、死をめぐるハイデガーの問題提起はショッキングだった。

人間にはいろいろな属性が備わっている。動物一般としては、食欲・性欲といった原始的な衝動を共有しているし、高級動物としては、知的な活動を絶えずおこなっている。動物のレベルを超えたところでは、芸術的な営みや、宗教的営み、また破壊的な衝動といったものもある。だから、人間とは、セックスをしたがる存在だとか、宗教心をもって彼岸にあこがれる存在だとか、人間同士で殺しあうことが好きな存在だとか、色々な言い方が成り立つわけで、その限りでは、そうした言葉を聞かされても、だれも大して驚きはしない。しかし、人間は死すべき存在だと、あらためて正面切って言われると、なにか変な感じにとらわれる。人間が死すべき存在だということは、ハイデガーに言われずとも、とっくにわかっていた。そのわかりきったことはなぜいまさら、大げさに取り上げるのか。だれでもそこに違和感のようなものを感じざるを得ないのではないか。

こうした違和感を弄ぶように、ハイデガーは執拗に、人間は死すべき存在だということにこだわるのである。

ハイデガーが死を論じるプロセスは次のようなものである。現存在としての人間は、世界・内・存在として世界のうちへすでに投げ出されている。その投げ出されてあるということを、ハイデガーは事実性といい、現存在によるその受け止め方を存在了解と言う。現存在は、自分の存在と自分がそこに投げ出されている世界についての存在了解をもとにして、自分自身を存在可能性として生きている。この存在可能性というのは、現存在の自由な選択にもとづいている。現存在は、すでに世界のなかに投げ出されてあるという事実性においては、受身の存在ではあるが、一旦世界のうちに存在するやいなや、自分自身の存在を選択する自由を持つ。現存在はその自由を駆使しながら、さまざまな可能性を実現してゆくものとしての存在である。それ故現存在は存在可能性と言い換えられるのである。

ところで、現存在を根本的に規定するのは、この可能性の全体としての現存在自身の全体性である。そのつどの可能だった在り方だけで、現存在を評価することはできない。日本には、死んではじめてその人の評価が定まるという言い方があるが、ハイデガーも、現存在が全面的に解明されるのは、その存在の全体性においてであり、それは現存在の終わり、つまり死によって担保される、と主張する。ハイデガーにとっても、現存在としての人間の意味が完全に明らかになるのは、死によって彼の存在が完了したとき、つまり彼の一生が幕を閉じて、全体性があらわになった時だとされるわけである。

とはいっても、現存在としての人間は、自分の全体性を自分自身で確認することはできない。何故なら、現存在が終わるときには、彼自身はもはや存在しないからである。それ故現存在の全体性の解明といっても、当の現存在自身がそれをおこなうことができないというジレンマがある。死というのは、もっとも個人的な出来事であるから、他人がこれを経験することはできない。せいぜい感情移入ができるだけである。しかし感情移入という不確実なものを根拠に、現存在の死とそれによって実現される現存在の全体性といったものを論じることは不適切である。では、現存在が自分自身の全体性を解明する糸口は見当たらぬのであろうか。

これについてのハイデガーの取り扱い方には、ややトリックめいたところがある。現存在はたしかに、自分自身の死を経験することはできない。いわんや自分の死後に自分の生涯全体の総括をすることも思いよらない。しかし、自分が死んだつもりになることはできる。死んだつもりになって、そのつもりの時点で、自分のそれまでの生涯を総括し、それに対して全体性の意味づけをすることはできる。現存在としての人間は、いつでも自分がいま死ぬことを想定して生きることができるし、またそうするべきなのだ。そうすれば、現存在は、たえず自分の存在についての全体的な自己評価が出来るし、その時点で、自分が正しい生き方をしてきたのか、あるいはいい加減で無意味な生き方をしてきたのか、十分に反省できるだろうというわけである。

ハイデガーは言う。「死とは、現存在が在るや否や、直ちに引き受ける一種の有様なのです。『人間は生まれたとたんに、死んでもおかしくかいほど年とっているのさ』」。『』のなかの言葉は「ボヘミアの農夫」という著作からとった言葉だが、これによってハイデガーは、人間はいつ死ぬかもわからぬのだから、その時の事をいつも頭に入れながら生きるべきだと言っているわけである。

しかし実際に人間のしていることは、死から目をそらし、それをあたかも自分とは無縁のものとして考えようとすることだ。たしかに人間は死すべきものかもしれないが、だからといってそれは、自分がいま死ぬことを意味しない。そんな不確かなことに煩わされるより、目の前のことに気を使ったほうがましだ、ということになりがちだ。「死は、<いずれ後ほど>と押しやられ、しかも<みなさんのお考えどおり>ということで押し切られています。こうして<ひと>は、死がどの瞬間でも可能であるという死の確実性特有のものを覆っているのです」

無論それではいけない、とハイデガーは主張する。人間は、いつ死ぬかもわからぬ可能性に迫られているのであるから、何時死んでもいいように、死に対して心構えをしていなければならないのである。「死は、現存在の終わりとして、現存在の最も自己的な他と無関係な、確実な、このようなものとして無規定で、追い越すことのできない可能性です。死は現存在の終わりとして、この存在するものの自分の終わりへの存在のうちに、存在しています。終わりへの存在の実存論的構造の限定は、そのうちで現存在が現存在として全体で在ることができる、現存在の在り方を引き出すためなのです」

このような覚悟無しでは、現存在は現存在本来のあり方から転落し、「死への非本来的な在り方」にとどまるだろう。そのように生きられた人間の生涯は、意味のあるものとして自己主張できないであろう。





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