知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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時間性と歴史性:ハイデガー「存在と時間」


「存在と時間」第二編第五章は、「時間性と歴史性」と題して、主に歴史性について論じている。時間性と歴史性がどのような関係にあるのか、ハイデガーの議論は、例によってまわりくどいのだが、要するに、「時間性」が主として現存在の個別的な生き方に限定して論じられているのに対して、歴史性は現存在の共同現存在としての側面、つまり現存在と彼が属する共同体との関連についての議論だということができよう。

現存在の時間性は、現存在が有限であることに根拠づけられていた。現存在には、始まりとしての誕生と、終わりとしての死がある。この始まりと終わりとに囲まれた現存在の有限な伸び拡がりが、時間性の根拠となるわけだ。ところが、現存在が属する共同体には、とりあえず始まりもなければ終わりもない。つまり、有限ではないわけだ。だから、共同体には時間性が全くないかというと、そうではない。何故なら、共同体は現存在から構成されているからだ。共同体そのものには、始まりもなければ終わりもないが、それが現存在から構成されている限り、現存在の継起という現象はある。有限な現存在が次々と継起することで、共同体は存立している。この現存在の継起のことを、ハイデガーはとりあえず、歴史性と呼ぶわけである。

この継起は、共同体には無論、現存在にもかかわっているから、現存在についても歴史性ということが問題になる。そんなわけで、時間性と歴史性をめぐるハイデガーの議論はちょっと輻輳することになるが、要するに歴史性というのは、人間の社会的なあり方としての共同体に着目した考え方だと押さえておいてよい。

歴史性を議論するについて、ハイデガーが持ち出すキーワードは二つ、宿命(Schicksal)と運命(Geschick)である(現行岩波文庫版の熊野訳では、<命運>と<歴運>となっている)。現存在は、無規定な、いわば白紙の状態でこの世に生まれ出てくるわけではない。世界・内・存在として、世界のうちに投げ出されたその時には既に、一定の環境に囲まれ、その環境の刻印を押されている。その環境とは、判りやすく言えば、人間の社会的な生存環境といったものだ。これは、共同現存在としての人間たちが、生起を繰り返す過程で築き上げてきた文化的。社会的伝統といってよい。これは、ある特定の現存在にとっては、彼の宿命となるわけである。これについてハイデガーは、次のように言う。

「現存在がそこにおいて自分自身に戻ってくる覚悟性は、それが投げられたものとして継承する遺産から本来的に実存することの、それぞれそのつどの事実的な可能性を、開示するのです。覚悟を決めて被投性に戻ってくることは、たとえ必ずしも受け継いだものとしてでなくとも、受け継いだ可能性を伝承してゆくことを、そのなかに秘めています。もしすべての『善きもの』が遺産であって、『善良さ』の性格が、本来的な実存を可能にすることのうちにひそんでいるならば、そのつど覚悟性において、遺産の伝承が構成されています」

ここで言う「遺産」が、現存在にとっては「宿命」として働くわけである。現存在は、世界・内・存在として世界のうちに投げ出されているわけであるが、その世界とは、過去からの遺産の上に成り立っているわけであり、現存在はこの遺産を前提として、それを踏まえながら(反復しながら)、自己を将来に向かって投企するのである。

宿命が、共同体の過去からの遺産として現存在に与えられているものと定義されるとすれば、運命のほうは、共同体のなかで生起しながら積み上げられてきた伝統そのものを指す言葉である。ハイデガーは言う。「宿命的な現存在が、世界・内・存在として、本質的に他人との共同存在において実存しているならば、その生起は共同生起であり、運命として規定されます。そこでわたしたちは、社会や民族の生起を、運命と呼んでいるのです」

この運命こそが、歴史性の本体をなすものであって、宿命のほうは、歴史性としての運命が時間性としての現存在にとって、制約として現われたものだと位置づけることができよう。そのへんについて、ハイデガーは次のように言う。

「本質的にその存在において将来的であり、しかがってその死について自由であって、自分において打ち砕かれて、事実的な<現>へと投げかえされることのできる存在者だけが、すなわち将来的なものとして根源を等しくして既在的である存在者だけが、自分自身に遺産として残された可能性を伝承しながら、自分独自の被投性を受け継ぎ、『自分の時』に対して瞬間的でありうるのです。本来的であると同時に有限的な時間性だけが、宿命といったもの、すなわち本来的な歴史性を可能にするのです」

これは、共同体の運命が個人としての現存在の前に宿命として与えられるのは、無条件のことではなく、現存在がその運命を、自分の宿命として選択することにもとづいている、つまり個人としての現存在の自由な選択こそが、宿命の本質なのだという、ハイデガーに特徴的な考え方が、この文章には含まれているわけである。

ともあれ、宿命と運命との関係、また時間性と歴史性の関係をめぐるハイデガーの議論は、いささか飛躍気味の感じがする。そのわけは、ハイデガーが、個人と共同体との関連について、あまり突っ込んだ議論をしないままに、現存在の時間性からいきなり共同体の歴史性に飛躍している点にあるようだ。ハイデガーはその飛躍を、共同現存在という概念を便利に使うことで、踏み込んだ議論をしないままにもちこんでいる。どうもそんな印象を受ける。

ハイデガーには民族主義的な傾向が強く、それを個人と民族とのハイデガーなりの独特な関係付けで根拠づけているわけだが、何故個人よりも民族が先なのか、という疑問にまともに答えたことがない。この疑問に答えるべき箇所は、「存在と時間」の歴史性をめぐる以上の議論のなかにあると思われるのだが、それがあまりにも飛躍した議論になっているために、上の疑問に答えられていないわけである。たしかに運命は、一人一人の人間にとっては、(宿命として)大きな制約になりうる。しかし人間にはそれを選択する自由があり、ハイデガーもそのことを認めているわけだ。それならば何故、民族が個人に先立つ故に、個人の本質は民族の中にある、したがって個人は民族と一体化することが、人間としての本来的な生き方なのだと言えるのか、そのへんがすっきりしないわけである。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
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