知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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形而上学とは何か:無についてのハイデガーの議論


「形而上学とは何か」は、「存在と時間」を刊行した二年後、1929年に行われた講義を、後に文集「道程」に収録したものである。筆者が読んだのは、創文社版ハイデガー全集第九巻収集のものだが、この全集版の日本語訳は、木田元が言うように問題があるようだ。特に訳語が独特で、「存在」を「有」とし、「存在者」を「有るもの」とし、現存在を「現有」としているなど、他の日本語訳と比べて、これだけがかなり変った訳し方をしている。現在一般的に言われている「形而上学とは何か」という題名でさえ、「形而上学とは何であるか」という具合に、大袈裟な感じを与える。

それはともかくとして、ハイデガーがこの講義の中で取り上げている「形而上学とは何か」という問いについて、ハイデガーはそれを「存在」についての思索だとしている。だから、この講義の中では、本来なら「存在とは何か」ということが問われるべきなのだが、ハイデガーは、直接「存在とは何か」とは問わず、存在の反対概念である「無」をとりあげ、もっぱらこの「無」について考えることで、「存在とは何か」という問いに答えようとしている。正攻法ではなく、回り道を通じての問題解明に努めているわけだ。

要するに、「存在」を論じるに「無」を以てする、というのがこの講義の特徴なわけだが、ではなぜ「無」なのか。ハイデガーの言い分を聞いてみよう。曰く、「研究されるべきものはただ、有るものだけであってその他の~何物でも無い、有るもののみであってそれ以上の~何物でも無い、有るものに限るのであってそれを越えた~何物でも無いと」。

かなりまわりくどい言い方なので、一体何が言いたいのかとまどってしまうところがあるが、要するにここで研究の対象となるのは「有るもの(=存在者)」以外の何物でも無い、ということである。この「何物でも無い」が、ハイデガーがこの講義の中でとりあげる「無」の規定なのである。

どうも、はじめから躓いてしまいそうだが、ここでハイデガーが言いたいことは、「存在以外の何物でも無い、それが存在である」、ということらしい。つまり何物でも「無いもの」、それが存在だというわけだ。「無いもの」とは「無」のことを意味するから、存在はある種の無だということになる。その限りで存在と無は一致する。だから無を研究すれば、存在の意味もわかるにちがいない。ハイデガーはどうも、そう言っているようである。

どうもからかわれているように感じるところだが、この辺はハイデガー一流の言葉遊びのせいだから、あまりまともにしないほうが好いかも知れぬ。細かいことを除いて考えれば、存在をその反対である存在でないもの、つまり(存在にとっての)無、を通じて考えようというわけである。無は存在しないことを意味するから、無の否定が存在である。しかも存在と無とは、完全な反対概念であって、世の中のすべてのことがらは、存在するか存在しない(無)かのどちらかである。だから、一方が明確に規定されれば、他方も自ずから規定されるようになっている。ということは、無の領域が確定すれば、存在の領域も自ずから確定されるというわけである。

以上のことを前提としたうえで、ハイデガーは「無」についての議論を展開するのである。

「無」とは何か。我々は普通、無とは与えられていない(存在しない)ものとして受け取るが、しかしよく考えて見ると、「無」とは何かと問うことで、すでに「無」を何か「有るもの」として設定している。ところが「無」とは「有るもの一切を否定することであり、端的に有るものでは~無いものである」。これは一見ディレンマに映る。しかし「無が、如何なる仕方にせよ~無それ自身が~問いかけられるべきであるならば、その場合には、無は問いかけられるのに先立って、与えられていなければならない。我々は無に出会い得るのでなければならない」

詭弁のように聞こえるが、ハイデガーが言いたいことは次のようなことだと思う。なにかが存在しないという場合に問題になっているのは、存在を否定する判断のことである。判断が問題であれば、無とは単に存在の否定であるから、存在しないものとしての無が、有るものとして有るはずがない。ところが、無を判断の結果ととらえずに、単に存在しないこととしてとらえれば、存在しないものとしての無が存在するといっても矛盾ではない。ハイデガーがいうところの無は、そのような無のことであろう。

そのような無を我々はすでに知っているのだとハイデガーは言う。「人間は、求められているものが目前に存在することを彼が先取している場合にのみ、求めることをよくし得るのである。ところでしかし、無が、求められているものである」というわけである。

このような無が、我々の前に現われるのは、どのような場合か。それは不安のうちである、というのがハイデガーの答だ。「不安が無を露呈する」とハイデガーは言う。

存在とか無といった形而上学的な概念を論じているところに、いきなり不安というような人間臭い言葉が出てくるので、読んでいるほうは面食らうが、この辺のところは「存在と時間」の余韻を引きずっているのである。不安というのは、現存在の根本的情態性であって、この状態性を通じて現存在としての人間は、現存在としての本来的なあり方に回帰するきっかけを得るのだった。不安というのはだから、現存在の本来的なあり方と非本来的なあり方とをつなぐ役目を果たしている。その場合、本来的なあり方が現存在の存在としての実存をあらわしており、非本来的なあり方が本来的なあり方の否定としての無をあらわすわけである。そんなわけでハイデガーは、存在と無を論じているこの場所で、両者をつなぐ架け橋的な概念として、不安を持ち出したのである。不安を通じて、現存在の非本来的なあり方としての「無」が露呈し、それが現存在に本来的なあり方としての存在=実存への回帰を促す、というわけである。

ハイデガーは言う。「無は、現・有を初めて、有るものとしての有るものの前へもたらす」と。また、「現・有とは、無のうちに投げ込まれていることを、意味する」とも言う。「無は、人間の現有にとって、有るものが有るものとして開示され得ることを可能にすることである。無は、有るものに対する反対概念を最初に交付するのではなくして、有それ自身の本質に属している。有るものの有において、無は無にするということが、生起する」

現存在(現有)が無のうちに投げ込まれているのは、現存在の有限性にもとづく。無限の存在ではない現存在は、一定の始まりと終りを持ち、その間に延び広がっている有限の存在である。この有限性こそが現存在の本質であって、この有限性の範囲を越えた部分は、その現存在にとっては存在の否定としての無である。つまり現存在は、無限の無の中に漂う有限な、つまり一回限りの線香花火のような現象であるわけだ。こうしてみれば、無が存在の否定と言うよりは、存在が無の限定のように受け取れる。もしそうならば、無こそが根本的なものであって、存在は無から派生したものだということになる。

以上、無といい、不安と言い、ハイデガーは彼一流の独特のタームを用いて存在論を展開するわけであるが、そのことについての批判を意識してもいて、それを1943年の「形而上学とは何かへの後記」の中で触れている。

ハイデガーは、この講義への批判を、主に次の二点に集約している。一つは、この講義が無を形而上学の唯一の対象にしていることで、いわば「無の哲学」のようなもの、完成した「ニヒリズム」になっているという批判であり、もう一つは、不安を唯一の根本気分とすることで勇気のようなものを軽視し、「不安の哲学」として行為への意思を麻痺させるという批判である。これらの批判に対してハイデガーは、この講義をよく読めば、おのずから誤解が解けるといった、高飛車な言い方をしている。いかにもハイデガーらしい。





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