知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ハイデガー「真理の本質について」


ハイデガーの小著「真理の本質について」は、1943年に論文の形で発表されたが、そのもとになったものは1930年の講義である。そんなこともあって、ここで展開されている真理論は、「存在と時間」における真理論の延長という性格が強い。「存在と時間」においてハイデガーは、真理を認識と実在との一致とする伝統的な考え方を批判したうえで、真理とは存在がそれ自身を隠れなくあらわにすることだと主張した。この基本的なスタンスは、「真理の本質について」においても変っていない。ハイデガーはここでも、真理は事象と言表との同調(一致)ではないとした上で、真理の本質とはなにかについて議論をしている。

その真理の本質を、存在がそれ自身を隠れなくあらわにすることだとする立場は、この小著でも基本的に引き継がれている。この小著の独自の点は、この主張を「存在と時間」におけるようにいきなり持ち出すのではなく、ワン・クッションおいて出すところにある。そのクッションとは、自由である。ハイデガーはここでまず、真理の本質は自由である、と主張することから、真理についての議論を進めるのである。

そこで自由とは何か、が問題になるわけだが、ハイデガーはそれ(自由)を存在するものを在らしめることだと主張する。「存在と時間」においては、存在がそれ自身を隠れなくあらわにすることが真理だと言ったわけだが、存在がそれ自身を隠れなくあらわにするとは、存在が自分自身を存在として開示することを意味している。ということは、存在が存在するものとしての自分自身を自由な存在として在らしめることではないか。つまり、真理と自由とは別物ではないわけである。

「存在と時間」では、真理とは存在がそれ自身を隠れなくあらわにすることだといい、「真理の本質」においては、真理とは自由であるという。しかしてその自由とは、存在するものを在らしめることだという。この議論はどうも、堂々巡りをしているかの印象を受ける。

自由といい、存在するものを在らしめるといい、その営為の主体は人間(現存在)である。だからハイデガーの真理論は、人間を中心にして展開しているということができる。この人間中心主義は、「存在と時間」の採用するところでもあった。そこでのハイデガーは、人間の存在しない世界では、真理もまた成り立ちえないと言っていたものだ。

人間を基軸にして真理を考えることでは、ハイデガーの議論は伝統的な議論に似ているわけだが、伝統的な議論と違うところは、人間の見方にある。伝統的な議論では、人間を考える主体として位置づけ、その考える主体としての人間の認識と認識の対象となる外的な事象との関係に議論が集中したわけだが、ハイデガーは人間をそのようには捉えない。人間は単に考えるだけのものではない。人間は世界内存在として、考える以前にすでにこの世界の中に投げ出されてある。そうしたものとしての人間の世界とのかかわり方は、単に知的な認識のレベルにとどまるわけではない。ところが伝統的な真理論は、人間を知的な認識の主体としてのみ捉える。それでは、人間の本質は見えてこないし、したがって真理を正しく捉えることもできない。これがハイデガーのスタンスだ。

ハイデガーが真理論に自由についての議論を持ち込んだのは、人間の有限性の自覚があってのことだろう。それ自身有限な存在としての人間は、認識をはじめとした生き方においても有限である。彼の認識もまた有限であって、無限の世界を一瞬にして捉えるといった能力はない。彼の認識の対象は、無限な世界のうちの一部を対象にしているに過ぎない。そうしたものとして、人間の前に開示される真理もまた有限なものである。ところが、本来的な真理とは、存在がそれ自身をかくれなくあらわにすることであり、かくれなくということには、世界が全体としてかくれなく開示されるという意味が含まれているとすれば、有限な真理は形容矛盾ということになる。

こういった自覚からハイデガーは、非―真理についての議論を持ち出す。非―真理とは、真理の否定であるが、その否定の非とは、真理が開示されていない事態、つまり存在がそれ自体をかくれなくあらわにしていない、という事態を意味している。こういうとこむつかしく聞こえるが、要するに人間の認識活動は有限であって、世界の一部について対象としうるに過ぎない。対象としているもの以外は、そもそも認識の領野から逸脱しているわけである。これは存在が存在としてかくれなくあらわにならず、人間にとって隠されているということを意味する。こうした事態をハイデガーは隠蔽とよんで、隠蔽こそが非―真理の原因なのだとする。

隠蔽は、人間の有限性に根ざしたものであるから、人間にとっては本質的な意義を持っている。有限なものとしての存在は、世界の一部をとりだしてそれを対象とし、それに固着する傾向を必然的に持っているのだ。この傾向をハイデガーは「執事的」と名づける。人間は「執事的に実存する」ものなのである。

「執事的に実存する」ことによって人間は、ある特定の存在するものに固着し、その裏返しとして、存在するものの全体を隠蔽してしまうことになる。だがこれは有限な存在するものとして人間の本質的な傾向であるから、避けることはできない。できることは、真理と非―真理のもつれ合いに自覚的になることだけである。かくしてハイデガーは言う。

「哲学の本質は、ただ存在するものの全体の根源的真理への関係からのみ規定されうる。しかし真理の全き本質は非本質を包括し、そして何よりも先ず隠蔽として支配するが故に、哲学はこの真理の尋究としてそれ自身において分裂している」(木場深定訳)。肝心なのは、この分裂について自覚的になることだと言いたいのだろう。

ここでハイデガーが「存在するものの全体」と呼んでいるのは、ソクラテス以前のギリシャの哲学者たちがフュシスと呼んでいたものである。ハイデガーはやがて、このフュシスとしての存在者の全体について、思考を集中するようになるだろう。





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