知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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存在と思考:ハイデガー「形而上学入門」


存在とはなにか、この根本的な問いについてハイデガーは、「形而上学入門」においても、言葉の文法や語源解釈という彼一流のやり方を駆使して解明してみせる。そのやり方があまりにも巧妙なので、読者はなんとなく説得されたような気もするし、また欺されているような気もする。そのへんの呼吸はハイデガー自身も心得ているようで、次のように言い訳しているほどだ。「ここでわたしが述べたことはじっさい、既に通り言葉になってしまっているハイデガー的解釈法の強引と偏狭との成果にすぎないだろう」(川原栄峰訳、以下同じ)

ともあれハイデガーは、存在とはなにか、という問いによって問われている当の存在について、とりあえず次のようなものとして提起している。「『存在』という語を、それの限界は無だけであるというほど広い意味で使っているのだ、ということを思い出していただきたい。要するに何ものでもないもの以外のものは、すべてである。そして無でさえも、われわれにとっては、『存在』に『属する』」

そのようなものとしての存在を、ハイデガーはいくつかの対概念を用いて解明してゆく。その手続きをハイデガーは、「存在の限定」と呼んでいる。限定することによって、存在という当の概念の外延と内包とを同時に確定しようというわけである。その対概念は四セットある。存在と生成、存在と仮象、存在と思考、存在と当為である。このうち最も重要な意義を持つのが存在と思考という対概念である。形而上学入門のおおかた半分は、この対概念についての長たらしい議論で占められている。

存在と思考についての議論をハイデガーは、パルメニデスやヘラクレイトスの断片的な言表およびソフォクレスの戯曲の中のコーラスの言葉を手がかりにして進めてゆく。その議論の展開するさまは、ハイデガー自身が言い訳しているように、きわめて錯綜したものだが、要するに存在と思考とは不可欠の相互関係にあるのであって、どちらももう片方なしでは成り立たないとするものだ。そのことをハイデガーは、パルメニデスの言葉、「存在と思考とは同じものである」によって確認している。もっとも無条件な確認ではなく、留保付きのものではあるが。

ところで、思考とは人間の行う営みである。人間以外のものが思考することはない。動物は思考しない。だが思考といっても様々なレベルがある。ただ単に目前のものを表象するだけのレベルもあるし、われわれが思想家と呼んでいる人たちの思考のように深い思考もある。そのことをハイデガーは次のように言っている。「なるほど動物と違って人間はみな思考(デンケン)しはするが、しかし誰でもが思想家(デンカー)であるわけではない」。存在は思考と一致する、と言われる場合の思考とは、思想家(デンカー)の行う深い思考(デンケン)なのであって、そのような思考の中にのみ存在はあらわな姿を現わすというわけである。

このように、存在と思考とは相互に依存する関係にあり、互いに相手を前提としている、つまり相手なしでは成り立たない。ということは、存在とは人間を前提にしたものだということになり、人間がいない(存在しない)ところでは、存在者もまた存在しないということになる。このことをハイデガーは次のように表現している。「確かに、人間がいなかったときもあった。だが厳密に考えれば、人間がいなかったときがあった、とわれわれは言うことができない。どんなときでも、人間はあったし、あるし、またあるだろう。というのは、時間は人間があるかぎりでのみ時熟するからである。人間がいなかったときというものはない。それは人間が永遠このかた永遠にわたってあるからではなく、むしろ時間は永遠ではないから、時間は人間的・歴史的現存在としてそのつど時間へと時熟するのみだからである」

ハイデガーがこう言ったからといって、彼が人間の誕生以前に宇宙があったことを否定しているわけではない。否定はしないけれども、無意味だと言っているわけである。人間の存在しない宇宙などナンセンスだし、そもそも人間にとっての宇宙を考えるときに、人間の存在を度外視することができるだろうか。存在が意味を持つのは、それが人間にとって特定の意義をもつ限りである。存在についてのこの人間中心主義的な解釈は、「存在と時間」のなかでも強調されていたが、ハイデガーはその主張をここでも繰り返しているわけである。

ハイデガーは、存在者の全体をギリシャ語のピュシスという言葉で呼んだ。これは日本語では自然と訳されているが、ハイデガーにとっては、日本語で言うような意味合いの自然を含めた存在者の全体をさしてピュシスと呼んだ。このピュシスには当然宇宙も含まれるが、その宇宙をも含めた存在者の全体としての存在、その存在がそもそも人間の思考の働きと密接不可分の関係にある、というのがハイデガーの基本的な立場である。

存在を人間の思考の相関者とみる立場は、思考の対象(ノエマ)を指向性の働き(ノエシス)の相関者とみるフッサールの立場を想起させるが、似ているのは外観だけで、内実はかなり異なると見てよい。フッサールは対象を(カントと同じく)ただの現象と位置づけたが、ハイデガーはその現象を存在者が自己をかくれなくあらわにしたものだとする点で、対象としての存在者の一定の自立性を尊重しているからである。思考が存在者を定立させるのではなく、存在者が思考を通じて自己の存在をあらわにするのである。だから存在と思考との対立において、イニシャチブをもっているのは思考ではなく存在である、ということになる。思考するから存在するのではなく、存在するからこそ思考する、これがハイデガーの根本テーゼである。





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