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精神:ハイデガー「形而上学入門」


ユニークなハイデガー論である「精神について」においてデリダは、「精神」という言葉をハイデガーがどのように用いてきたか、その変遷について分析している。それによればハイデガーは、「存在と時間」の時点では、この言葉を注意深く避け、やむを得ず使う場合には引用符付きで使っていた。それが表だって使うようになったのは、有名な総長演説以降のことであり、本格的に使うようになるのは、「形而上学入門」以降のことだとしている。そこで、「形而上学入門」でハイデガーがどのようにこの言葉「精神」を使っているか、改めて注目しながら読んでみたい。

「形而上学入門」のなかで「精神」という言葉が初めて出てくるのは第一章「形而上学の根本的問い」においてである。川原栄峰訳の理想社版では18ページにあたる。ここでこの言葉がいきなり出てくる。いきなりというのは、前後の議論と連続していないという意味である。前段の議論ともつながっていないし、その語の議論へとスムーズに連続しているわけでもない。この「形而上学入門」という本は、そもそも「存在とはなにか」という問いに答えることを目的に書かれたものなのだが、その問いに、「精神」がどのようにかかわるのか、それが明示的に述べられていない。述べられているのは、「精神」が誤解され、無力化されているということだけである。そのことが「存在とはなにか」という問いに向き合う姿勢を損なってきたのだというハイデガーの主張はかすかに伝わってくるような気もするが、それは正面から伝わってくるのではなく、ことのついでに伝わってくるといった具合なのだ。

ともあれ、この言葉が最初に出てくるところを読んでみよう。「精神の本質的な諸形態はどれも両義的である。それらが他と比べものにならないものであればあるほど、ますます誤解が多い」。こういって、精神は誤解されやすいということからハイデガーは、精神についての議論を始めるのだが、その誤解とは、哲学の本質に対してあまりにも多くを要求しすぎることと、哲学の任務を曲解することに関するものだと言う。この文脈では、精神は誤解の対象なのか、それとも誤解の主体なのか、いまひとつ判然としないが、とにかく精神はその本来の姿で人々と関わり合っていない、というハイデガーの問題意識は読み取れそうである。

ハイデガーは、精神についてとりあえずこう言ったあと、しばらくこの問題から離れ、かなり先の62ページのところで再びこの言葉に立ち戻っている。そこでは世界の暗黒化と関連して精神が語られる。こんな具合である。「われわれが世界の暗黒化について語るとき、一体世界とは何であるか? 世界とはいつも精神的世界である。動物は世界を持たず、また環境世界をも持たない。世界の暗黒化とは精神の無力化を含み、精神の解消、消耗、駆逐、誤解を含んでいる」

要するに世界とは精神的なものであるから、世界が暗黒化するというのは、精神が不具合を来しているという意味のことを言っているわけだ。そこでなぜ精神は不具合を来しているのか、これが問題となるわけだが、ハイデガーはその理由を、精神の誤解にあるとしている。その点では、精神についての冒頭の言及と一致しているわけだ。

そこでハイデガーは精神の誤解について、その諸相を分析する。誤解には四つの諸相がある、とハイデガーは言う。第一の、そして決定的な誤解は、精神が知性の意に解釈し変えられたということである。精神は単なる知性に成り下がった。この知性とは「目の前に与えられているものを考慮し計算し考察し、またそれをできるだけ改良したり、それに代わる新しいものを産出したりするのに聡明であるにすぎない」。この意味での聡明さは、機知のあることと同じだが、機知があることはハイデガーによれば、精神がないことを隠しているのである。

知性に成り下がった精神は第二に、「他のものの役に立つ道具の役割を果たすまでに落ちており」、第三に、「精神のこの道具的誤解が生まれるやいなや、精神的出来事のいろいろな力、すなわち詩と造形芸術、国家建設と宗教などは、意識的に育成したり立案したりできるようなものの部類に陥ってしまう」。第四に、精神が道具的知性に成り下がった結果、「目的に役立つ知性としての精神と文化としての精神とは、ついに贅沢品、装飾品となり、人々は他の多くの物と並んでこれにも気を配り、衆目の前に持ち出し、自分が文化を否定していないこと、野蛮を欲してはいないことの証拠としてさしだすのである」

以上は精神についての否定的な言明だが、ではハイデガーは精神というものの、誤解される以前の、本来的なあり方をどう考えているのか。それについてはあまり丁寧な説明はなく、代わって総長演説の一節が引用されるのみだ。それは、「精神とはむなしい明敏のことでもなく、無責任な機知の戯れでもなく、理詰めの分析を果てしなく続けることでもなく、さらにまた世界理性などでもない。精神とは存在の本質への根源的に気分付けられた知的決意性である」というものだ。文章の前段では、上記の精神についての誤解と同様の見解が述べられ、後半では精神の積極的な意義が述べられているわけだが、その精神の積極的な意義をハイデガーは、「存在の本質への根源的に気分付けられた知的決意性」と言っているわけである。

だがこう言われただけで、精神の積極的な意義について、なにがしかの理解を得られるのか、読者としては生半可に思わないではいられないところだろう。こう宣言した上で、さらにその意義の内実についての注記的な説明が続くのであればともかく、この本におけるハイデガーの精神についての議論はこれで終わってしまうのである。だから読者は、ハイデガーのいうところの精神なるものについて、なにがしかの明確な理解に達しようとすれば、ある程度彼の議論を自分の想像で補わねばならぬ。デリダが「精神について」の中で展開した議論は、そうした想像を根拠にしたものなのだろう。

もっともハイデガーは、上の誤解についての議論の前に、次のようにさりげなく言っている(川原訳の57パージ)。「問題は、存在を根源的に開示して、その存在の力の中へ、人間の歴史的現存在を返し届けること、したがってまた同時に、われわれドイツ人自身の未来的現存在を、われわれに授けられている歴史の全体の中で、存在の力の中へと返し届けることである」。こういう文章を読むと、ハイデガーはどうも、精神というものを、個人ではなく、民族とかかわらせながら考えていたように思える。しかもその場合の民族とは、ハイデガーにとってはドイツ民族意外にはありあえなかったようである。ドイツ民族について語っている彼のつぎのような言葉が、そうした推測に一定の根拠を与えるようである。

「われわれドイツ民族は・・・もっとも隣人の多い民族であり、したがって最も危険にさらされた民族であり、そのうえさらに形而上学的な民族である」





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