知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ハイデガー「ピュシスの本質と概念」


ハイデガーは「形而上学入門」の中で、ピュシスを存在者の全体、あるいは全体としての存在者と規定していた。一方でハイデガーは、ピュシスというギリシャ語がラテン語のナトゥラと訳されたことをきっかけにして、(ドイツ語を含め)現代のヨーロッパ諸語ではいわゆる自然という意味になっていることに言及しつつ、ピュシスの本来の意味は、そうした外面的なものとしての自然などではなく、存在者の本源的な在り方、つまり存在者の本質としての存在だとも言っていた。つまり、「形而上学入門」の時点では、ピュシスという語にはある揺らぎがあったわけである。

1939年に書いた論文「ピュシスの本質と概念について」は、アリストテレスの「自然学」を題材にとりながら、ピュシスについて明確な概念規定を試みたものである。

冒頭に近い部分でハイデガーは言う。「アリストテレスの『自然学』は、西洋の哲学の覆蔵されたる而もそれ故に決して十分に思索され抜かれたことのない根本書である」。なぜなら、とハイデガーは言う。「自然学が『形而上学』であると同程度に形而上学は『自然学』である、からである」と。ここでハイデガーが、自然という言葉でさしているのが、ピュシスなのである。それ故、「形而上学<すなわち超-自然学>は、或る一つの全く本質的な意味において『自然学』であり~すなわちピュシスについての或る知(自然学)である」(辻村公一訳)ということになるわけなのだ。

こう言われると、ピュシスと自然とは同意義の言葉として使われているというふうに伝わってくるが、事態はそんなに単純ではない。ハイデガーがアリストテレスを援用しながら使っているピュシスという言葉には、作られたものとしての存在者、つまり人間の手による制作物との対比において、制作されることにではなく、それ自身のうちに存在の根拠をもっているような存在者をさしてピュシスと言っているのである。この意味での存在者には、いわゆる自然のほか、精神的・歴史的な意味合いでの存在者として、人間の共同体のようなものも含まれることになるはずである。

ピュシスの概念をとりあえずこう抑えたうえでハイデガーは、ピュシスの本質についての議論を展開してゆく。それを手短に言えば、ピュシスとは、存在者を存在者たらしめている元初だということになる。この元初をハイデガーは、原因とも言い換えているが、要するに存在者の存在の根拠をなすものである。あるいは存在者の存在そのものといってもよい。こうすることでハイデガーは、ピュシスの本質をめぐる議論を、存在者をめぐる存在的な議論から、存在者の本質である存在をめぐる議論、つまり存在論的な議論に転化させているわけである。

ハイデガーが元初という言葉を使うのは、あらゆる存在者は動かされてあるものだという前提があるからだ。存在者には、いわゆる自然に属するものと、作られたものがあるが、自然はつねに生成するという点で動かされてあるものといえ、作り物は人間の手によって材料から完成品が作られるという過程を経るという点で、動かされてあるものである。この両者を比較すると、自然のほうはそれ自身のうちに元初を持っているのに対して、作りもののほうは、親方(製作者)のイメージのうちに元初を持っているという違いがある。

いずれにしても、この動的なプロセスは、ハイデガーによれば、それぞれ最終的な目的としての終わりを持っているということになる。この終わりのことをハイデガーはテロスと呼んでいるが、これは、作り物の場合には椅子とかベッドとか、作り物が最終的にとる形である。一方自然に属するものについては、そのものの形相がそれだ、とハイデガーは言う。その言い方はアリストテレスに依拠したもので、アリストテレスの質料と形相をめぐる議論を念頭に置きながら、質料に対する形相の本源的な優位性を確認しているわけであろう。

こうしてみると、ピュシスについてのハイデガーの議論は、存在者のうちで、作り物以外の自然のものについて、それの形相こそがピュシスの本質なのだとするところに力点が置かれている。そういうことでハイデガーは、ピュシスとは存在者の存在を言い換えた言葉なのでと言っているわけであろう。

ここで言われている形相とは、或るものが何であるかを示す言葉である。つまり或る特定の存在者の本質を明示する言葉だ。この明示するというプロセスを別の言葉で言い表すと範疇ということになる。「範疇とは、或るものが何であるかを名付けることであり、すなわち、家とか樹木とか天とか海とか堅いとか赤いとか健やかさとして、名付けることである」からだ。

ところで、我々はこの形相とか範疇とか言われるものをどのようにして獲得するのだろうか。この疑問に関しては、ハイデガーは次のように言っている。「吾々が例えば、樹木的なるものを既に眼中にもっている場合にのみ、吾々は個々の樹木を確定できるのである。そのようにして樹木的なるもののように既に眼中に入っているものを、見ることそして見え得るようにすることが、エパゴーゲーである」。エパゴーゲーという言葉は、範疇化を意味するギリシャ語だが、その範疇化の主導権は、吾々認識主体にあるといっているわけで、その点ではカントのカテゴリー論を想起させる。カントの場合には、かなり抽象的なレベルでカテゴリーが論じられていたのに比べ、ハイデガーの場合には、具体的な対象についてもカテゴリー論を適用しているように見える。

ともあれハイデガーは、形相こそがピュシスの本質だとするアリストテレスの考え方を改めて提出したわけだが、そのことで何を指摘したいと思っていたのか。自分もアリストテレスと同じ考えだと言いたいのか。どうもそうではないらしい。というものハイデガーの存在論は、存在者の存在をテーマにしており、その存在とは、存在者が自分自らを隠れなく現わすことだと言っているわけで、アリストテレスのように、その隠れなくあらわれたものが、そのものの形相だなどとは考えていなかったはずだからだ。では、何が言いたいのか。とりあえず、論文の最後の言葉を参考に掲げておきたい。

「有(存在)は、それ自身を覆蔵しつつ露現することであり~つまり元初的な意味でのピュシスである。それ自身を露現することは、非覆蔵性を非覆蔵性として元初的に本質の内へ匿うことである。すなわち非覆蔵性とは真-性ということである・・・ピュシスはアレテイアであり、つまり露現することであり、そしてそのために、ソレ自身を覆蔵することを好む」





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