知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ハイデガー「ヒューマニズムについて」を読む


ハイデガーが1947年に公開した「ヒューマニズムについて」は、副題にあるとおり、フランスの研究者ジャン・ボーフレにあてた書簡の体裁をとっている。ボーフレはサルトルの動静(「実存主義はヒューマニズムである」の刊行など)を考慮しながら、ハイデガーの哲学がサルトルの実存主義とどのようなかかわりがあるかについて問題提起し、それにハイデガーが答えるという形をとっている。ハイデガーの答えは、単純化して言うと、自分の思想はサルトルの実存主義やヒューマニズムとは関係がないというものだった。ハイデガーのこの突き放した見方が、その後サルトルの実存主義が不人気になるについて、一定の影響を与えたと見られている。

書簡の冒頭近くの部分でハイデガーはボーフレの問いに答えて言う。ボーフレのその問いとは、いくつかあるが、第一のものは、「ドノヨウニシテ、『ヒューマニズム』トイウ語に、アル意味ヲ与エ返スベキカ」(渡辺二郎訳、以下同じ)というものだった。これに対してハイデガーは、(ヒューマニズムを含め)何々主義といった主義主張の無意味さについて指摘し、肝心なのはそうした主義とは無関係に、存在そのものについて思索することなのだと主張する。存在について初めて思索したのはギリシャ人たちだったが、彼らは何々主義といった題目なしで、思索したというのである。ハイデガーによれば、今流行のサルトルの実存主義もヒューマニズムも、そうした題目の一つに過ぎないわけである。

こうしたわけで、この書簡の前半部分のハイライトはサルトル批判であり、後半部分のハイライトはハイデガー自身の存在についての思索である。ここでは、ハイデガーによるサルトル批判の眼目について取り上げる。

ハイデガーは言う。「サルトルは、これとは違って、実存主義の根本命題を、次のように言明している。すなわち、実存は本質に先行する、と。その際、サルトルは、エクシステンティア(現実存在)とエッセンティア(本質存在)とを、形而上学の意味において受け取っている。この形而上学は、プラトン以来、次のように言い述べている。すなわち、エッセンティア(本質存在)はエクシステンティア(現実存在)に先行する、と。サルトルは、この命題を逆転したわけである。けれども、一つの形而上学的命題を逆転させたとしても、その命題は、形而上学もろとも、存在の真理の忘却のうちにとどまっているのである」(同上)

ここでハイデガーが形而上学という言葉でさしているのは、プラトン以来の西洋の哲学の伝統のことである。ハイデガーは、その伝統のうちにとどまっては、思索の本当の目的である存在の真理に達することはできないと考える。形而上学の伝統を超えたところで、存在について思索しなければならない。ところがサルトルは、まさに形而上学的な伝統のなかで、言葉遊びをしているに過ぎない、そうハイデガーは批判するわけである。

この批判はサルトルには応えたと思う。なにしろ彼の主著「存在と無」は、ハイデガーに触発されて書いたものであるし、概念装置の多くをハイデガーから借用している。それを、自分とはまったく無関係であるばかりか、形而上学の伝統から自由になっていないと批判されたわけだから、サルトルとしては、自分の思想をトータルに否定されたと受け取ったはずだ。それでもサルトルは、ハイデガーに対して強い反批判を行わなかったようだ。

ともあれハイデガーは、エクシステンティアとエッセンティアの対立というプラトン以来の形而上学の根本テーゼに対して、エクシステンツ(実存)という概念を提起するわけだが、それはごく単純化して言うと、「存在へと身を開き~そこへと出でたつありさま」と定義される。この定義の内容は、それだけでこむつかしい議論になるので、ここでは触れない。

サルトル批判のついでにハイデガーは、自分の思想は、ヒューマニズムとも無縁だとも言っている。「『存在と時間』における思索は、ヒューマニズムに反対している。けれども、この対立は、だからといって、そうした思索が、人間的なものの反対側に与するとか、非人間的なものを支援するとか、非人間性を擁護するとか、人間の尊厳を下落させるとかするものであるということを、意味してはいないのである」(同上)

わかりにくい言い回しだが、要するにサルトルによって立てられた主義主張としてのヒューマニズムには自分は反対だと言いたいわけであろう。主義主張としてのヒューマニズムは、人間性に立脚したような外観を呈しているが、その人間性とは、動物の一種としての人間を中核にするものであり、その限りで、「存在へと身を開き~そこへと出でたつありさま」としての人間の本質から外れている、そうハイデガーは主張しているのである。ヒューマニズムという言葉の定義を厳密にしておかないと、ハイデガーの主張はある種の韜晦として聞こえるだけである。

ハイデガーはまた、「大切なのは人間ではなく存在であり、その存在が自らを与える『エス・ギープト』の働きを注視せねばならない」とも言っている。「エス・ギープト」とは「~がある」という意味を表すドイツ語で、英語の「ゼア・イズ」、フランス語の「イリヤ」に相当するものである。これは解釈によっては、「何々が与える」という意味だが、その与える主体が存在そのものだとハイデガーは言う。この考え方を延長すると、「人間がいる」は、存在が人間を与える、ということになる。人間が存在を与える、あるいは定立するのではなく、存在が人間を与えるのである。

このあたりはハイデガー特有の言葉遊びも絡んでいるので、読者は眉に唾をしながら読んだほうが良い。特にハイデガーが、存在を表す言葉としてのドイツ語とフランス語を比較して、「イリヤ{ガアル}は、『エス・ギープト』{与えられている、それが与える}を、不正確にしか翻訳していない」、という場合などは特にそうである。ハイデガーはこう言うことで、フランス語に対するドイツ語の圧倒的な優位を主張しているわけだが、それは公平な第三者の曇りの無い目には、子どもの空威張りとしか映らないだろう。





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