知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




スタイナー「ハイデガー」


ジョージ・スタイナーは、オーストリア系のユダヤ人であり、アメリカに帰化し、英語を用いて英米系の人達に向かって、主として文芸批評的なことがらについて、語りかけた人である。その人が二十世紀最大の哲学者といわれるハイデガーについて、哲学を専門的に勉強したこともないのに、あえて書いた。そのことについてスタイナーは、言訳みたいなことを書いている。自分がハイデガーに魅かれたのは、主として言語についての関心からであったとともに、(一人のユダヤ人として)ハイデガーのナチスへのかかわりについて考えてみたかったからだ、というようなことである。

ハイデガーは、英米系の知的空間のなかでは評判が悪い。ハイデガーの言っていることは、何らの意味ももたないたわごとだ、とする見方が支配的だ。それでもハイデガーを批評するものはまだハイデガーについてある種の敬意を払っているともいえようが、影響力の大きな西洋哲学史を書いたラッセルなどは、ハイデガーについて全く触れていない。存在すら無視されているわけである。そんなハイデガーについて、ハイデガーとはよくない因縁をもつユダヤ人のスタイナーが、かなりポジティブな姿勢で論じたのがこの本だ。その姿勢には、揺らぎのようなものも感じられるが、ハイデガーをなるべく実像どおりに見つめ、それが西洋の哲学史にとってもつ意味を虚心に評価しようとする意欲が感じられる。ハイデガー論としては、バランスのとれた試みだといえるのではないか。

スタイナーはこの本の中でハイデガーに多面的な分析を加えているが、それは、大きく分けると二つの問題意識に収斂される。一つはハイデガーを西洋の哲学史のうえにどう位置づけるべきか、もう一つはハイデガーのナチスへのかかわりをどう評価すべきか、というものである。

前者についてスタイナーは、ハイデガーは二つの点で西洋哲学に巨大なインパクトを与えたと見ている。一つは、哲学の最重要の概念とされてきた真理について、それをプラトン・アリストテレス以来の伝統から切り離し、ソクラテス以前の考え方に戻したことである。プラトンのイデアは、時間を超越した永遠というものに安住した、静的な概念であった。それをハイデガーは百八十度転回させて、真理を時間の中に取り戻す(真理を生きた具体的なものとして捉える)という作業を行った、というのである。この作業は、もう一つの作業である、デカルト的なものの解体と結びついている。デカルト以来、西洋の哲学は、存在を人間の意識に立脚させてきた。それをハイデガーはまたもや百八十度転回させて、人間の意識は存在によって根拠付けられるとした。「我思う、故に我あり」ではなく、「我あり、故に我思う」と言う具合に、真逆な立場を哲学の立脚点としたわけである。

こういうわけであるから、ハイデガーが西洋哲学の歴史にとって持つ意味には実に巨大なものがある。ハイデガーを批判する人も、このことを無視できないはずだ、とスタイナーは言って、ハイデガーの歴史的な意義を強調するのである。そうすることで、ハイデガーを存在の語り部として改めて位置づける。ハイデガーは、西洋の哲学が長らく忘却していたこの存在というものに再び光をあて、存在への問いこそが哲学そのものなのだ、と主張した。そうスタイナーは見るわけである。

このようにハイデガーを存在の語り部として位置づけた上で、「存在と時間」のハイデガーと後期のハイデガーとの間には、なにか根本的な変化なり「転回」といえるようなものがあるかどうか、スタイナーは問題提起している。これについては、ハイデガー自身が、「存在と時間」は英訳できるが、後期の著作はとうてい外国語に翻訳できないと語っているので、ハイデガー自身も自分の立場が転回したと考えていたように見えるのだが、スタイナーは連続と断絶とを二つながら見るという折衷的な態度をとっているようだ。

スタイナーは言う。後期の諸著作における「現存在と言葉との関係は、『存在と時間』の構想とまるきり絶縁しはしないが、明らかに新しい反ヒューマニズム的、もっと正確には反人間中心的なねじれを与えるような仕方で述べられている」。つまり、「存在と時間」においては、存在を基礎付けるためのものとして現存在が語られたわけで、その意味では人間中心的な議論が展開されていたわけだが、後期のハイデガーにおいては、存在が自分自らを開示するというような、神秘的な議論がなされるようになる。「存在を決定するのは人間なのではなく、存在が言語を介して人間に、また人間のうちにそれ自身を開示する」というような具合に転回したわけで、これをスタイナーは反ヒューマニズム、反人間主義というわけである。

後期のハイデガーが、ヘルダーリンを始め詩人たちの言葉の解釈に没頭し、彼らの言葉に存在の開示を見ようとしたことについて、スタイナーはかなり同情的に書いている。その辺は、同じく言葉に拘るもの同志の親近感がなさしめている部分かもしれない。言葉をめぐるハイデガーの議論には、語源についての恣意的ともいえる解釈だとか、ドイツ語の民族的特殊性について強調するあまり、論理的で普遍的な議論を妨げるようなところがある。たとえばハイデガーは、「あるものが存在する」をドイツ語では「それが存在を与える Es gibt Sein」という表現をとることを取り上げて、これは存在が自らを開示するという事態を明確に現わしている事例なのだが、こういう言い方はドイツ語でしかないもので、それはドイツ語だけが存在について正しい見方をしている証拠なのだ、というような牽強付会的議論をしている。こういう議論についてもスタイナーはかなり容認的なところがある。

しかし、ナチスとのかかわりにおけるハイデガーの姿勢については、スタイナーはかなり厳しい見方をしている。これについてもスタイナーは、ハイデガーにはフッサールを意図的に迫害した事実は認められないとか、ハイデガーがナチスに積極的にかかわったのは1933年のフライブルグ大学長就任から一年ばかりの間のことに過ぎなかったこと、この時代にナチスに背を向けることはほとんどありえなかったことなどを取り上げて、やや擁護する姿勢も見せているのであるが、やはり結論的には、ハイデガーのナチス加担を責められるべき行為だったと言っている。「これらの(当時のハイデガーの書いた)テキストや総長時代のハイデガーの短い発言などを見るとき、そこには疑問の余地はない。それは卑しむべき、誇大で野獣的なしろものであって、その時代の公認の言語とハイデガーの慣用語とがきわめて催眠術的にしっくりと混ざりあっている」(生松敬三訳)」。このように言った上でスタイナーは、次のような厳しい断罪の言葉をハイデガーに投げかけるのだ。

「一人の哲学者にとって、一人の目撃者にとって、そのことについてまったく一言も言わないということは、その悪事に加担していることに等しい。なぜなら、われわれはつねに、われわれを無関心たらしめておくものへの共犯者だからだ・・・彼は一個の小人物でもあった・・・圧倒的に強く浮かび上がってくる特徴は狡猾さ、『農民的抜け目なさ』という特徴である」

ここまで言うと、相手への人格的な攻撃を超えて、その全面的な否定を想起させてしまうと思うのだが、スタイナーはそうした否定と、ハイデガーに対する肯定的な感情とを、同時に抱え込んでいるように見えるところがある。ともあれ、ハイデガーがナチスへ共感するようになってしまったわけは、人間中心主義から逸脱していったことの結果だったとスタイナーは見ているようである。「言葉がいちばん効力をもつときには、語っているのは人間ではなく、『人間を通して言葉それ自体』なのだという、ハイデガーの仮説には、ヒトラーの側の霊感、ナチによるトランペットとしての人間音声の利用へのまがまがしき示唆が秘められている。この非人間化というモチーフは鍵である。ハイデガーの思考において、人間というものが意味と存在の中心からじりじりと押しのけられつつあったちょうどその時に、ナチズムがハイデガーを襲ったのである」





HOME| ハイデガー |次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである