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本来性と非本来性:スタイナーのハイデガー論


本来性と非本来性の対立は、ハイデガーの根本的な概念セットの一つである。だからこそアドルノは、ハイデガー批判のキーワードとして「本来性という隠語」を持ち出したわけだ。アドルノは、ハイデガーが本来性という言葉で、自分の全体主義的・人種差別的な考えを展開していると言った。ハイデガーは、本来性を人間(現存在)の根本的なあり方と言ったが、じつは彼の考えている本来性とは、個々の人間を民族という全体的な容れ物に解消してしまう、非人間的な概念なのだと批判したわけである。

アドルノに比べてスタイナーは、本来性をめぐるハイデガーの議論に同情的である。スタイナーはハイデガーのこの議論に、西洋哲学のいくつかの伝統とのつながりを見ている。その一つは、アウグスティヌス、パスカル、キルケゴールにつながる伝統であって、このからみでは、人間というものには人間に相応しい本来のあり方があるにかかわらず、そのあり方からはずれた生き方をしているのが現実の人間である。したがってそうしたあり方から目覚めて、本来のあり方をめざさねばならない。それは神に直面して、己の生き方を深く反省することを意味する。つまり、人間性の本来のあり方と、そこからの頽落という考え方の伝統に、ハイデガーもつながっているという見方である。

ハイデガーは特にキルケゴールから大きな影響を受けた。人間の本来的なあり方を設定し、そこから逸脱した人々を水平化された大衆として捉えたキルケゴールの考え方は、そのままハイデガーの、人間にとっての根本的で本来的な生き方と、そこから逸脱して日常性に埋没した「マン(ひと)」という非本来的な生き方とを対立させる考え方につながっている。

もう一つは、これは伝統というまではいかぬかもしれぬが、マルクス主義的な考え方とのつながりである。マルクスは、ヘーゲルの議論やメシア主義的な伝統を踏まえて、人間の類としてのあるべき姿と、そこからの逸脱(疎外)というテーゼを打ち立てたわけだが、これがハイデガーのいう本来性と非本来性の先行思想だったとするのである。スタイナーは言う。「ハイデガーはその議論がもっとも対照的、さらには論争的であるときにさえ、いや正確にはまさにそういうところで、マルクス主義を大きく意識しているのである。二十世紀の都会人の人格喪失について、あるいは西洋の科学・技術における搾取的な、基本的に帝国主義的な動機づけについてのハイデガーのいちばん代表的な数頁を、『資本論』やエンゲルスの産業の非人間性に対する告発という直接の先行者なしで思い描くことは困難である」(「ハイデガー」生松敬三訳)

こうしたマルクス主義的な考え方を、デュルケームのアノミー概念や大量消費時代の大衆のイメージとからませながら、ハイデガーは現代人の陥っている非人間的な状況とそれからの回復というテーゼを打ち出している、とスタイナーは位置づけるわけである。つまり、ハイデガーは、アドルノが言うような特異な思想家などではなく、時代の流れに棹差し、時代の求めていることに応えようとした、それなりに誠実な思想家だったということになる。「ハイデガーの提起した基礎的存在論は、ほかに関係のない舞台装置の中の迷子石のようなものではないということである」(同上)

そこで、ハイデガーのいう「本来性」とはなにか、ということが問題になるが、これがそう簡単な問題ではない。この本来性という言葉で、キルケゴールなら、人間が神と直接に向かい合った孤独な生き方ということになるだろうし、マルクスなら原始共産主義社会における自由で平等な関係にある人々のあり方、類的存在としての人間の生き方、を思い浮かべるだろう。ではハイデガーはどう考えるのか。

ハイデガーにとって人間の本来的な生き方とは、樵夫や農夫のそれをイメージしている、というのがスタイナーの見方だ。スタイナーは別のページで、ハイデガーを狡猾な農民と言ったが、その狡猾な農民であるハイデガーが、自分の生き方として内面化している農民の生き方を人間の生き方のモデル、本来的な生き方として考えていたのだろうというのがスタイナーの見立てである。スタイナーは言う。「彼はどこまでも農業の人である。畠と森がハイデガーの世界の核心にはある。ハイデガーに実存的な正しさという試金石を与えているのは、四囲の環境との太古からの親和性の中で活動している樵夫や農夫である。そしてここでもまた、ハイデガーの言語と思想ははるかに大きな範囲に容易に適合する。農業からの反動、田園へのノスタルジアは、現代のイデオロギーに大きな役割を演じているからである」(同上)。だからこそハイデガーは、根無し草的存在を非難し、メトロポリタン的・コスモポリタン的なものを憎悪するというのである。こういうことでスタイナーは、ユダヤ人である自分が、ハイデガーとは対極の存在だということを自覚しているわけであろう。

従って、とスタイナーは続けて言う。「その政治的目的は必然的に反動的である。ハイデガーがこの広範な怒りと空想の一派に付加するものは、古代の神々、あるいはその神々が思い描く生命秩序の起動者が大地と森の中にあるという、そして彼らが復活され、活動させられることは可能であるという、一部比喩的な信仰である」(同上)

ハイデガーの人間の本来性についての見方を、アドルノはストレートに国家主義とか全体主義とかに結びつけたわけだが、スタイナーはそこまで露骨ではないが、ハイデガーの政治的な反動性に言及することで、それが全体主義と結びつくことにはある程度の蓋然性があると言っているように聞こえる。要するにハイデガーに対するスタイナーの向かい方には、やや中途半端なところが見受けられるということだろう。

後期のハイデガーは、人間が存在を語るのではなく、存在が人間を通して自分自身を語るのだと言い出したが、その典型の事例として持ち出したのがヘルダーリンだった。そのヘルダーリンについてのハイデガーの解釈を、スタイナーは、「ハイデガーはヘルダーリンに国家主義的神秘主義者という素性を押し付けている」と言って批判している。ハイデガーのヘルダーリン読解は、「西洋の文学的・言語学的感受性の歴史上もっとも人を困惑させ、かつ人を呪縛する文献の一つである。深まり行くバーバリズムと国家的自己破壊を背景として語られた、これらいくつかの主要なヘルダーリンの頌歌についての注解は、独特のテクストの批評的解釈を通じて、詩の発明・創出、国民的同一性、人間の言葉そのものの最終的な聖堂へとつき抜けようとする努力以外のなにものでもない」

以上のスタイナーの批評を通じて浮かびあがってくるのは、ハイデガーは人間が本来のあり方から疎外され、非本来的なあり方に頽落しているという見方をマルクスやキルケゴールと共有し、その点では時代のもたらす問題を鋭く意識していたが、その解決として持ち出した方向が、太古への回帰という点で、政治的な反動と結びついた、ということだろう。





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