知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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木田元「ハイデガー拾い読み」


木田元の「ハイデガー拾い読み」は、ハイデガーの膨大な量の講義録から、興味深いところをかいつまんで紹介しようというものだ。木田によれば、ハイデガーの講義録は、大学の講義での話し言葉をそのまま文章にしたものなので、まわりくどく冗長なところがある一方、かんでふくめるような言い方をしていて、凝縮された言葉を使っている論文とは違って、非常に分かりやすい。しかも、哲学史にかかる重要な概念や問題について、本筋からそれたところでそれとなく(肩肘凝らずに)論じている。そういうものの中に木田は、非常に裨益させられるところがあるし、また西洋哲学について深く感じさせられるところもある、と言う。そんなわけでハイデガーの講義録は木田にとって、この上もなく面白い読み物だと言うのである。

木田が紹介するトピックのなかからいくつか孫引きしてみよう。まず、カントのカテゴリー表にあるレアリテートという概念について。これは、日本語では「実在性」と訳され、その語義からして「現実性」とほぼ同じと理解されている。当のドイツでもそのように理解されている。しかしこれは、ハイデガーによれば、誤った理解なのだそうだ。カントの時代までは、レアリテートという言葉に実在性という意味はなかった。ではどういう意味だったかというと、あるものが何であるかという場合の、その何であるか、つまり物の事象内容を示す言葉である。だから本来実在性とは関係ない。事象内容にかかわる言葉であるから、「事象内容性」とでも訳すべきだということになる。

この誤解からどのようなことがらが生じたか。カントは、神の存在論的証明を論駁する部分で、「存在するというのはレアールな述語ではない」と表明する。その表明を、カント以後の世代のドイツ人は、ここでいう存在とは実在を表わす述語ではないと読んだ。すると、存在と実在とは違う範疇の概念だという不都合なことが起きてしまう。それは、レアールをいう言葉を誤解することから起きることなので、レアールという言葉を、カントの時代の普通の意味で受け取ればそういう不都合はなくなる。カント時代の意味からすれば、上の表明は、存在するというのは、神という概念にとっての事象内容、つまり神の属性には属さないという意味になる。では存在とはそもそもどういうことを現わす概念なのか。それは、属性としてではなく、事実としての存在、つまり事実存在を現す概念なのである。これに対してレアールな述語としての存在は、あるものの属性としてのあり方、つまりそのものの本質を現していることから、本質存在というべきなのである。

次に木田が紹介するのは、プラトンとアリストテレスが確立した存在論は、制作的な存在論だとするハイデガーの見解である。ハイデガーによれば、存在を本質存在と事実存在に分けたうえで、本質存在を事実存在に先立つとしたのがプラントンであり、その考え方をアリストテレスも大方の形で引継ぎ、それが今日にいたるまで西洋哲学の本流の見方となった。これは本質存在をイデアとして捉える見方であるが、そのイデアというのは、人間の制作という行為に注目した概念だとハイデガーは言う。人間がなにかを制作するときには、作業に先立って完成品のイメージを心に描いているはずである。でなければ盲目の行為ということになり、製作行為は明確な形をとった製作品には結びつかないだろう。このように人間の制作行為に着目すれば、たしかにイデアとしてのそのものの本質存在(なにであるか)は、制作された結果出来上がったものの存在、つまり事実存在に先立つわけである。

こうした見方が、その後の西洋哲学を一貫して駆動してきた。その歴史を木田は次のように要約する。「中世の存在論にあってはその製作行為が神の世界創造の働きとして改釈され、さらにそれが近代においてはもっと多様に改釈しなおされ、たとえばカントによっては主観の表象作用として捉えなおされるといったぐあいに、歪曲に歪曲が重ねられてきたのだが、依然そこには<ある>ということを、<作られている>こととする存在概念が一貫している、とハイデガーは見るのである」

ハイデガーのすごいところは、西洋哲学の伝統をこのように整理して見せてくれるばかりでなく、こうした伝統に対抗するような、存在についての新しい考え方を提起しようとすることだ、と木田は言う。その考え方のヒントをハイデガーは、プラトンやその師匠のソクラテスより以前のギリシャの哲学者たちにさかのぼることから得ようとしているようだ。それを簡単に言うと、存在をイデアとして、ということは永遠に制止したものとして、その限りでは制作された結果そこに被製作品として現前している事実的な存在者の根拠としてあるようなものではなく、絶えざる生成の過程にあるような存在者というイメージからヒントを獲ようとする試みだ、と木田は言うのだが、その詳細については、語らない。そう簡単には語れないからだろう。ただ、ハイデガーはこうしたアイデアをニーチェから得たと匂わしているのみだ。

もうひとつ興味をそそられるのは、観念論と唯物論を対峙させる考え方についての、ハイデガーの見方を紹介している部分だ。唯物論と観念論を対峙させる考え方は、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」で言明されてから、とくにマルクス主義者を中心にした唯物論者たちの間で拡がっていった。これに対しては、職業的哲学者たちから、カテゴリー・ミステイクだとの批判が寄せられてきた。「唯物論に対峙するのは唯心論であって、これは究極的な実在を物質と見るか精神と見るかという存在論上の対立である。一方、観念論に対峙するのは実在論であって、これは、われわれの認識する対象は、われわれの観念によって構成されたものだと見るか、それとも、われわれの認識とは独立にそれ自体で存在している事物が実在していると見るかという認識論上の対立である。だから、唯物論と観念論を対峙させるのは、一種のカテゴリー・ミステイクだ」というわけである。

これについてハイデガーは、次のように議論して、この対立はカテゴリー・ミステイクなどではなく、存在論上の対立である、つまり同じカテゴリー内部での対立だとする。観念論は、西洋の言葉ではイデアリズムといわれるように、イデアに存在性格をもたせる立場だが、そのイデアとは人間の思考作用の産物である。人間の思考作用の産物たるイデアに存在性格をもたせるのが観念論の特徴である。それゆえ、イデア主義といってもよい。一方それに対峙する実在論は、レアリズムといわれる。レアリズムとは、語源的には<レース=もの>から派生した言葉である。そういう<もの>に存在性格をもたせるのがレアリズムなのだとハイデガーはいう。この場合、ものを基盤としたレアリズムは、やはりものから出発するマテリアリズム(=唯物論)と異ならない意味を持っている。レアリズム=マテリアリズムと言ってもよい。それ故、観念論と唯物論とは、存在論的な対立関係にあるといえるわけで、その限りではマルクスの言っていることはカテゴリー・ミステイクなどではない、というわけなのである。

ハイデガーは言う、「イデアリズムとレアリズムの対立は形而上学的(存在論的)な対立です。つまりこの対立は、存在一般を解釈する仕方にかかわっているのです(イデアリズムは存在者の存在を自我的なものとして、つまり自由なものとして解釈するのであり、レアリズムとは存在者の存在を自我を欠いたものとして、つまり強制的なもの、機械的なものとして解釈します)」

以上興味深い話題として三つあげたが、このほかにも色々裨益される事柄が紹介されている。ハイデガーのような難解な哲学者には、こんな読み方もありうるのだと思わされるところがある。





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