知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く 英文学 ブレイク詩集仏文学プロフィール 掲示板




図式化と詩作:ハイデガーのニーチェ講義


ニーチェ自身に伝統的な意味での認識論への志向があったとは考えられないが、ハイデガーは「認識としての力への意思」を語るにあたり、トピックの性格からしてそうすべきだと考えたのか、ニーチェの認識論らしきものについてかなり突っ込んだ議論をしている。その議論を聞いていると、問題の立て方がカントの認識論を思わせるので、あたかもニーチェ自身が認識論について突っ込んだ思索をしていたように伝わってくる。

ハイデガーはニーチェの認識論を定式化するにあたって、ニーチェの次のような言葉を手掛かりとして挙げる。「<認識する>のではなく図式化するのである~つまりわれわれの実践的要求を満たすに足るだけの規整と形式をカオスに課すのである」(薗田宗人訳、以下同じ)

「<認識する>のではない」と言っているので、これは認識のことを問題としているのではない、と思われがちだが、ニーチェにとっては、「図式化」というものが人間の認識活動の本質であるとされるので、これもやはり認識についての一つの考え方、つまり認識論なわけである。そこで「図式化」とは何か、ということが問題となり、「われわれの実践的要求を満たすに足るだけの規整と形式」とが何を意味し、それらが課されるべきカオスとは何を意味するのかが問われなければならない、ということになる。

まず、図式化について。この言葉はカントの図式論を想起させる。カントの場合には、人間の認識は感性的な現象としての所与にアプリオリなカテゴリーをあてはめることで成立するとされるわけだが、その場合に、所与にかかわる感覚と、カテゴリーにかかわる理性との、この両者の働きを媒介するものとして図式が位置付けられた。図式には、感性的な要素とカテゴリー的な要素との両方があるがゆえに、それらを媒介することができる、そうカントは考えたわけである。

それに対してニーチェは、図式化とは「われわれの実践的要求を満たすに足るだけの規整と形式をカオスに課すのである」と言っている。ということは、図式とはわれわれ人間にそなわっている規整と形式であって、それをカオスに課すことが「図式化」ということになる。カントの場合には、図式化をクッションにしてカテゴリーが現象に当てはめられるというような二段構えになっていたものが、ニーチェにおいては、図式(規制的な諸形式)が直接カオスに当てはめられるという具合になっている。ということは、ニーチェの言う図式とは、カントの言うカテゴリーと図式とを一体化したものと考えてよい。いずれにせよニーチェは、カオスとしての感性的な所与に人間の側に本来的にそなわっている図式を適用することで、人間の認識は成り立つ、と考えているようである(ハイデガーによれば)。

そこで、図式化の対象となる「カオス」とはいかなるものか、ということが次の問題となる。カオスというと、感性的な所与が呈している混沌とした状態を意味する言葉だと受け取られがちだが、ニーチェがこの言葉であらわしているのはそんなことではないとハイデガーは言う。「ニーチェにとって『カオス』という名辞は、感覚の領野におけるなんらかの錯綜状態を、おそらくは総じてもっていかなる錯綜状態をも意味しているのではない、と。カオスとは、だいたいにおいて身体を具えた生、身体を具えたものとしての生を呼ぶ名称である。ニーチェはカオスをもって混乱状態における混乱そのもの、あらゆる秩序を無視した無秩序を意味しているのではなく、あの押し迫り、奔流するもの、その秩序が隠蔽され、その法則を私たちが直接には知らないあの躍動するものを指しているのである」

ハイデガーはまた次のようにも言う。「カオスとは、世界全体とその理法についての特異な先行的投企を名指す名称である」と。多少わかりづらいところもあるが、要するにカオスとは、われわれ人間の生きているというその状態をさす言葉らしいのである。ということは、ハイデガーによって解釈されたニーチェは、認識作用としての図式化を論じながら、その認識の目標を、通常の意味での対象ではなくて、自分自身としての人間に向けているということである。ニーチェの認識論はだから、人間についての解釈論ということになる。

そこで、我々人間はなぜ、規制的な諸形式としての図式を自分自身の状態であるところのカオスに適用させようとするのかが次の問題となる。この問いについてニーチェは、それは「われわれの実践的要求」がしからしめる、つまり「カオスの図式化を欲求」させるのだと答える。なぞそうなのか。ニーチェによれば、人間というものは、生きていくうえで、確固として永続的なものを支えとしなければならない。このことをニーチェは「存立確保」という言葉で呼んでいるが、その存立確保の欲求がプラトンのイデアのようなものを生み出したのだとニーチェは見る。それはある種の幻影にすぎなかったが、人間というものは、たとえ幻影であっても、自分の支えとなる確固として基盤を求めるものなのである。

ともあれ議論は、図式化の具体的な内容に進んでいく。ここでニーチェは、というよりハイデガーの解釈するところのニーチェは、認識論の伝統的な議論に立ち戻る。伝統的な、というのは、プラトン以来の形而上学を踏まえたという意味である。形而上学にあっては、個々の現象を説明するについて、それをイデアの模倣あるいは範例として説明する。個々のもの(現象)は、そのもののイデアのひとつの現われなのである。それと同じように、われわれが一つの白樺の木を見るとき、それは様々な相で現れてくるが、それにもかかわらず、常に同じ白樺として認識される。それは、白樺のさまざまな現われ方(相)を、あとから比較して同じものだと追認する結果そうなるのではなく、むしろ逆に、私たちがこの木を見やるときには、常にそれを前もって同一のものと見越して眺めているからである。

この同一のものを、カントならカテゴリーとか概念とかいうところだが、ニーチェはそれを詩作されたものと言う。「私たちにとって本来的に現われ、その有様を示すもの、つまり右のような性質をもつ事物性において示される同一なる事物~ギリシャ語でいう<イデア>~とは、淵源を言えば詩作されたものである」

ニーチェはなぜここで、詩作などという言葉を使うのか。イデアとか、カテゴリーというと、種としての人間にとってはともかく、個人としての人間にとっては、外在的な性格の概念という響きがする。ところが詩作という言葉には、個人的な営みだというニュアンスが伴う。ニーチェはそこに着目したのだと思う。我々人間が、現象をあるものとして認識する場合、そのあるものとは、彼にとって外在的ななにものかではなく、彼自身が生み出した、彼自身にとって有用な概念でなければならない。何故なら人間の生というのは、その生を生きている人間自身が自分でその生の基準を設定しながら生きるものだからだ。その基準は、外在的なものであってはならず、人間の内部から湧き出てくる内在的で自主的なものでなければならない。その内在的で自主的なものの性格付けをニーチェは詩作という言葉で表わしているわけである。

それにしても、人間はなぜ、詩作を通じてでも、自分の世界認識についての基準を設定せずにはいられないのか。それは人間にとって真理が必要なことと同じ事情によってである。人間は、生きていく上では、真理という形の確固とした存立基盤を必要とした。でなければ、人間は根なし草のようにたよりない存在になってしまうからだ。それと同じように、人間は、詩作を通じて、世界認識にとって必要な視座を手にいれるのである。その視座を通じて人間は、世界についての一定の認識を持ち、それをよりどころとして生きてゆくばかりか、自分の生をいっそう高揚させることができるのである。





HOME| ハイデガー| 次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである