知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く 英文学 ブレイク詩集仏文学プロフィール 掲示板




ヨーロッパのニヒリズム:ハイデガーのニーチェ講義


ハイデガーのニーチェ講義第五講は、「ヨーロッパのニヒリズム」と題してニーチェのニヒリズム論を取り上げながら、ヨーロッパ哲学の歴史に一瞥を与えている。ハイデガーの講義には寄り道が多いとの印象を持つのだが、この講義は特にそうで、議論はあちこちに拡散する。だいたいニーチェのニヒリズム概念の説明に当たっても、ニヒルつまり「無」という言葉の語源解釈を持ち込んだりして、それがニーチェのニヒリズム概念とどんな関わりがあるのかと、読者の首をひねらせるところがある。そのほかにも、プロタゴラスとデカルトの比較とか、アプリオリを巡る議論とか、本題であるニヒリズムを大きく逸脱するかに見える議論も含まれている。まあ、ハイデガーを読む醍醐味は、闊達に展開する議論の広がりを堪能できることにあると言っている人もいるくらいなので、これはかえって読書の興味を高める要素だと言えないこともない。

ニーチェが言うところのニヒリズムを単純化して言い換えると「一切価値の価値転換」ということになる。すべての既存の価値がその価値を失い、世界は価値のない状態になる。それをニーチェは「神は死んだ」という言葉で言い表す。つまりこれまで至高の価値と思われていたものが、その価値を剥奪されるわけだ。そうなればこの世界には一切の価値がなくなり、それこそニヒル=無が支配するようになるかと言えばそうではない。それまでの価値に代わる新しい価値を、人間自らが立てるべく、人間というものはできているのだ。それ故、ニヒリズムという言葉には、既存の価値の廃棄と、それにかわる新たな価値の定立という二つの意味が含まれている、というわけなのである。

そこでこの講義は、既存の価値がなぜ廃棄されねばならなくなったか、その理由を述べるとともに、既存の価値に代わる新たな価値がどのようなものになるべきか、この二つのことをテーマにする。その議論の大半は、プロタゴラスとデカルトの比較を中心に、従来のヨーロッパ哲学、それをニーチェ=ハイデガーは形而上学と言うのだが、その形而上学の歴史的検討からなる。形而上学はハイデガーにとっては存在の真理を問うことを目的としているので、存在についての議論、すなわち存在論という形をとる。したがってこの講義の大部分は、存在論についての議論からなるわけである。これはニヒリズム論としては迂遠なやりかたのようにも見え、実際ニヒリズムの本題からかなり逸脱しているとの印象も受けるのであるが、ハイデガーとしては既存の一切価値を転換することがニヒリズムの主な内実であり、その既存の価値が形而上学によって代表されていることを踏まえれば、当然必要な議論をしているということになる。

議論の本筋に触れる前に、ニヒリズムという言葉をめぐるハイデガーの遊びにつきあってみよう。例の言葉遊びである。ハイデガーは言う。「ひとは『ニヒリズム』の語を、内実のない宣伝的標語として乱用することができる。この標語はとりわけ人に恐怖を起こさせ、したがって誰かに悪評をなすりつけるのに都合がよく、しかもこの語をそのように悪用する人自身の無思慮なことは、けっこう隠されてしまうのである」(薗田宗人訳、以下同じ)。しかしニーチェも自分もそのような意図でこの語を使っているわけではない、とハイデガーは言いたいのであろう。なぜならこの言葉を通じて言われていることは、ヨーロッパ的な思惟に関する本質的な事柄だから、というわけである。

「<ニヒリズム>とは、一切の存在者がニヒル~<無>であることをいう・・・<無い>とはある事物、ある存在者が現存しないこと、存在しないことを意味する。つまり<無>およびニヒルは、存在者をその存在において思念し、したがってひとつの存在概念であって、いかなる価値概念でもない」、こうハイデガーは言って、ニヒリズムとは「存在しないこと」にかかわる一種の存在概念だとするわけだが、そのことがニーチェのニヒリズムとどのような関わりがあるのか、そのことについては必ずしも明確な説明をしていない。ニーチェはニヒリズムを「一切価値の価値転換」と言って、価値にかかわる問題だと言うのだが、ハイデガーは、ニヒリズムは存在についての概念であって価値にかかわるものではないと言うのである。これに加えてハイデガーは、ニヒルもまた存在の一つのあり方なのだとする主張を、例によって含めるような口調で解明するのであるが、その辺の議論の進め方は、ハイデガー流の言葉遊びだと受け取っておいたほうがよい。

前述したようにこの講義の主要部分は、プロタゴラスとデカルトの比較を中心とした西洋哲学史の再検討に当てられているのであるが、ハイデガーがとくにこの二人~プロタゴラスとデカルトを取り上げたのは、彼らがヨーロッパの伝統的な思惟、つまり形而上学に対して、そのアンチテーゼを提起していると考えるからである。ニヒリズムとは、従来の一切の価値がその価値を失うことを意味するのであるから、その従来の価値を代表すると思われるものをとりあげて、それがなぜ廃棄されねばならぬかを論じればいいとも思えるのだが、ハイデガーはあえて、従来の価値に挑戦したと彼が考える人を取り上げることで、彼らの議論を通じて、従来の価値に潜む問題点を逆説的に浮かび上がらせるという方法をとったように思われる。

従来の価値とはヨーロッパの形而上学によって示されているものである。従来の形而上学は、存在者と存在とを区別したうえで、存在を先に立つ本質的なものとして、存在者をその現われつまり仮象として、非本質的なものとしてとらえる立場に立つ。この立場によれば、存在そのものであるイデアが本来的なものであり、したがって価値を表し、個々の存在者はその存在の影、仮象であるに過ぎない。こういう考え方にあっては、イデアが体現する彼岸が本物の世界であって、此岸としての現実世界は仮象の世界ということになる。イデアは究極的には神の形をとり、此岸は人間によって代表される。はかない存在者としての人間は、神によって示された本質的な世界に身をゆだねることで、本当に正しい生き方ができる。この考え方においては、人間はむなしい存在者にすぎない。ところがプロタゴラスにせよデカルトにせよ、それとは正反対の考え方をした。彼らは人間こそがこの世界の尺度、ある意味で創造者そのものであると喝破したのである。それゆえ彼らはニーチェの先駆者としての栄誉を担っている、とも言える。もっともそう言われて彼らが喜ぶかどうかは別問題であるが。

ともあれ従来の価値と異なった主張をする人たちを通じて従来の価値が持つ問題を明らかにしようというのがこの講義の組み立て方である。従来の価値はその威光をはぎ取られて無価値となる。その結果ニーチェの言うニヒリズムの状況が到来するわけだが、このことは、従来の価値に代わる新たな価値の創造を促す。それは外ならぬ人間の課題だ。人間が従来の価値に代わる新たな価値を設定し、それにしたがって本当に人間的な世界を創造してゆくことが求められる。真の意味での人間中心の世界が問題となるわけだが、それを実行できるものは限られたもののみだ。それをニーチェは<超人>という言葉であらわす。<超人>とは神に代わる概念である。一部の選ばれた人間が神に代わってあらたな価値を設定し、それを以て凡庸な人間たちを導く、というのがニーチェの構想だったと考えられる。なにしろニーチェが若年の頃から叫び続けてきたことは、凡庸な人間とそうでない人間との対立ということであり、人間が種として進化してゆくためには、<超人>の登場が不可欠だとニーチェは考えていたのである。





HOME| ハイデガー| 次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである