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ル・グランの書:ハイネのナポレオン賛美


「ル・グランの書」は、ハイネのナポレオン賛美の書である。ハイネが子供の頃に、ハイネの故郷デュッセルドルフにランス軍が進駐して来た。この進駐軍をハイネは、侵略者としてではなく、解放者として迎えた。それには父親の影響があったとされる。ユダヤ人である父親は、熱烈な自由主義的進歩主義者であって、フランス革命を賛美していた。ハイネはそんな父親の思想を受け継ぎ、ナポレオンをフランス革命の体現者として、熱烈に支持した。この書にはハイネのそうしたナポレオンへの敬愛が込められている。

ル・グランというのは、ハイネの家が世話をしたフランス兵の名である。デュッセルドルフでは、進駐軍の兵士達のために、市民が宿舎を提供した。ハイネの家も、ル・グランという兵士に宿を貸すことになった。まだ少年だったハイネは、このル・グランから、フランス革命の精神を教えられ、それを体現したナポレオンへの敬意を一層深めた。ナポレオン軍がデュッセルドルフに進駐したのは、1806年から1813年までの間であるから、ハイネがこの書の中で描いているデュッセルドルフの思い出は、その期間のことであろう。ハイネは1797年生まれだから、フランス軍が進駐してきた時には、九歳の少年だった。

その九歳の少年が、外国の軍隊の進駐を歓迎したのは、父親の影響も無論あるが、彼自身ユダヤ人として、ドイツ社会に強い批判意識をもっていたからだろう。ナポレオン軍がやってくる前のドイツ社会は、デュッセルドルフのような比較的開けた地方でも、どうしようもなく閉塞的な社会だった。それはすべてのドイツ人を愚昧にするようなものだ。ハイネはドイツ人が愚昧になったのは「あほうの素」を飲みすぎたからだといっているが、あほうの素つまりワインを飲む習慣はドイツ人だけのことではないので、ドイツ人があほうになるのは、ドイツ的なもののしからしめるところだと少年ハイネは思ったようだ。

ナポレオン軍がはじめてデュッセルドルフに進駐してきたとき、市長が歓迎の挨拶をして、「進駐軍は吾人をして幸福ならしめんと欲しておられるのであります」と叫んだのだったが、これは無論敗者の外交辞令である。それに対して少年ハイネは、心からナポレオンを歓迎した。そのナポレオンの勇姿を次のように称えているほどである。それは、デュッセルドルフの目抜き通りを、白馬にまたがってやってくるナポレオンの姿を見た時の感動を描いた部分だ。「なんという感激だったでしょうか、はじめてあのかたご自身を、この恵まれた目で、ほかならぬあのかたを、おお、皇帝を、まのあたりにすることができたとは」

ハイネはこの書を、さる婦人にあてて書いた手紙という体裁で書いている。書いた時点は1825年だから、ナポレオンが死んでからわずか四年後である。ハイネはナポレオンの死に一つの時代の終わりを見て、その時代の雰囲気を哀惜するつもりでこの書を書いたのだと思う。その時代の雰囲気とは、自由や平等といった開放的で進歩的な理念があふれているようなものである。だがハイネは、そうした雰囲気の具体的な内容について触れることはしない。そうした事柄に触れる言説は、当時のドイツでは危険思想と見なされており、それを公言することは、官憲の弾圧をもたらすと考えたからであろう。そのかわりにハイネがやったことは、ル・グランの太鼓の音に託して、思想の良しあしを弁別してみせることだった。ル・グランは、軍用太鼓の鼓手だったのである。

少年ハイネはフランス語がよくわからなかったので、フランス語でル・グランと語り合うことはできなかった。そこで太鼓の音調で言葉の意味を伝えあった。リベルテという言葉はマルセーユマーチの音で、べティーズ(とんま)という言葉はデッサウ行進曲の音であらわすといった具合だ。それは、ナポレオン軍がロシアとの戦いに敗れ、敗残して戻ってくるときにも変わらなかった。その時「ムッシウ・ル・グランは、生涯の打ちおさめに太鼓を鳴らしたのです。太鼓としてもこれが鳴りおさめとばかり、鳴りに鳴ったのです。自由の敵に仕えて、帰営譜を打ってなるものか。ぼくはル・グランの哀願するようなまなざしを了解して、やにわに仕込み杖のさやを払うと、ぐさりと太鼓に突き刺しました」(中村英雄訳)

こんな具合にこの書は、ナポレオンが体現したフランス革命の理念をたたえる一方、ナポレオンが没落することで、ヨーロッパに再びあほうな社会が復活したことを嘆いた書である。じっさいヨーロッパは、ナポレオンを事実上排除したあとで、反革命の同盟を形成し(ウィーン体制)、反動の時代へと入っていたのである。ハイネがこの書を書いた時期は、もっとも反動的な時代だったわけである。

そういうわけであるから、この書は、ヨーロッパの反動主義的雰囲気を打破して、ナポレオンが体現していた自由や平等といった進歩的な理念の回復を呼び掛けたものと言える。その意味で非常に政治的な趣の作品である。ハイネのそうした政治的傾向は、1830年にフランスで始まった革命的雰囲気の復活によって火をつけられたように激化することとなる。

これは余談だが、ハイネは革命の原因を、強いものが弱いものをとことん追い詰めるということに見ている。強いものが図に乗って弱いものを迫害し、自分の口腹ばかりいい思いをさせていると、食うに困った貧乏人どもが、追いつめられて立ち上がるというのである。ハイネはいう、「この手合いは平然と食事を続けていて、彼ら以外の人間は食うものがなくなると突然どんどこやりはじめるものだ、それも長い間忘れたものとばかり思い込んでいた、とてつもないマーチをやりだすものだ、ということを知らないんですよ」

窮乏が人を革命に駆り立てるという主張は、マルクスの窮乏化論も受け継いでいる。マルクスはハイネと親しかったが、二人の窮乏化論につながりがあったのかどうか。それはわからない。


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