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ヘルゴラント便り:ハイネを読む


1830年6月末、ハイネはヘルゴラント島に渡る。ノルダーナイ島よりさらに沖合にある島である。その島の滞在記が「ヘルゴラント」便りだ。これは後に、「ベルネ覚書」の第二章として発表された。ベルネは左翼民主主義者として生涯ぶれることがなく、若い頃はハイネと気脈を通じていた。ところが、1830年代半ば以降、二人は仲たがいするようになった。理由は、ハイネの日和見主義にベルネが愛想をつかしたということらしい。そのベルネの攻撃から自分を守るために、ハイネは1839年に「ベルネ覚書」を執筆し、その第二章という形で、この「ヘルゴラント便り」を挿入したといういきさつがある。

この「ヘルゴラント覚書」が有名になったのは、1830年の七月革命のこだまがこの文章の中に響いているからである。ハイネは、七月革命が起ったことを、数日後の新聞で読んだのだったが、さっそく強い連帯感を革命に示している。その連帯感のあふれるような心情が、この文章からは読み取れる。だからこの文章は、ハイネの七月革命礼賛というような位置づけを与えられるようになった。

「便り」という言葉にあるとおり、誰かに向けて書かれた手紙という体裁をとっている。書いた当時には、それが誰なのかは明らかにしていないが、「ベルネ覚書」に収録することによって、これがベルネに宛てて書いたものとの体裁を取り繕った。「ベルネ覚書」を書いた当時、ハイネはベルネの一派から革命の裏切り者と呼ばれていたので、自分はそうではなく、そもそも革命を強く支持していたのだという気持ちを訴えたかったのだと思われる。

1830年7月1日づけの手紙から始まる。これ以降七月中に書かれた手紙の中では、ヘルゴラントの支配者であるイギリスの俗物根性が罵倒され、それに比べればフランスはまだましだが、しかしいまは国民性にこだわっているべきではない。個々の国民ではなく、人類という普遍的な概念が重要なのだと主張する。その普遍性を体現するのはキリスト教であるとハイネはいう。それに対してユダヤ教はローカルな教えである。そこのところをハイネは次のように表現している。「モーセは、自分の民を心をこめて深く愛している。まるで母親のように民の未来を気づかう。キリストは人類を愛している」。こういうことでハイネは、自分がキリスト者であることを強調したいかのようだ。

ハイネが七月革命に言及するのは8月6日付けの手紙の中でだ。その前に、8月1日付けの手紙のなかで、どうやら革命勃発の噂をきいたらしいことが暗示されているが、明確に革命に言及しているのは8月6日付けの手紙である。七月革命は、7月27日に勃発して、同月29日に収束しているから、ハイネは終息後およそ一週間後にその全貌を理解したようである。

ハイネは、七月革命への共感を、次のような詩句で表現した。
 鎖を断ち切った奴隷を
 自由になった男を 恐れるな
これはシラーの詩「鐘の歌」からの引用だと断っているが、まさに七月革命は、ハイネにとっては自由の勝利と思われたのであろう。後にベルネによって、ハイネは日和見主義に陥って自由を忘れたと罵倒されたので、自分は筋金入りの自由主義者だとアピールしたかったのだと思う。

ハイネは、「僕は革命の子だ」といい、全面的に革命とそれが体現する自由の理念の擁護者であると主張するために、詩人らしい言葉を駆使している。だが、革命を賛美することはやさしい。むつかしいのは、革命が起きた歴史的な意義を正確に理解し、それにもとづいて、今後の世界のあり方をどう変えていくかについて、明確な指針を示すことだ。七月革命が結果的に失敗したことを踏まえれば、なおさらその失敗の原因の究明と、失敗を繰り返さないために今後何が必要なのかについての議論が求められる。しかし、少なくともこの「ヘルゴラント便り」の中では、そうした議論には踏み込んでいない。あたかも、革命がわれわれの心を躍らせてくれたが、それ自体は何の意味も持たなかったといっているように聞こえるのである。

ハイネが、七月革命の意義について、まともな反応を示すのは、革命から九年後のことである。その時に書いた「ベルネ覚書」への注のような形で、七月革命についてのハイネの評価が書かれている。その文章の中でハイネは、「あわれな民衆! あわれな犬! まさにあわれなものたち」と言って革命を起こした民衆を批判し、「民衆が血を流したのは、自分自身のためではなく、まさに自分自身のためではなくて、ほかの連中のためだった。1830年7月、民衆が勝利を闘いとったのは、ほかならぬブルジョワジーのためだった」と書いている。つまり民衆はブルジョワジーに利用されただけだと気づいたわけである。

その民衆が、七月革命から18年後に再び革命を起こしたとき、ハイネはそれを強くは支持しなかった。民衆の過激さに懸念を感じたからだ。


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