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井上正蔵「ハインリヒ・ハイネ」


井上正蔵のハイネ論「ハインリヒ・ハイネ」が岩波新書から出たのは1952年のことだが、いまだに日本におけるハイネ論の標準的なものとして読まれている。といっても、重版はされていないらしいが。どうやら今の日本人には、ハイネを読もうという人は非常に限られた数しかいないようなのだ。そんな日本人の一人として、小生がハイネを再読しようという気持ちになったのは、昔に受けた感動をもう一度味わってみようということが一つ、もう一つは革命の詩人といわれたハイネを、自分なりに再評価してみたいと思ったからだ。近頃、マルクスを読み直すことにはじまり、シュンペーターやグラムシを読み進むうちに、今の世界を律している資本主義の秩序が崩壊に瀕していることが見えてきたし、その先には新しい世界秩序への展望のようなものも感じられてきた。ハイネはそうした新しい世界秩序の可能性を最初に洞察した人だったのではないか。そんな思いが湧きおこってきて、ハイネを再読しようという強い気持ちを抱くようになったのである。

井上は、ハイネとマルクスとの交友を引き合いに出したりして、ハイネを革命の詩人として打ち出している。ハイネは、日本ではロマンチックな抒情詩人としてもっぱら受け取られてきた歴史があるので、ハイネを革命詩人として特徴づける井上の立場は、当時としては新鮮だったのではないか。この本が出た1952年は、まだ敗戦後の混乱が完全におさまてはおらず、労働運動も盛んだったし、革命をめぐる議論もなされていた。そんな時代を背景にして、ハイネを革命をめざす極めて政治的な文学者として見る評価が普及したのだと思う。そうした動きにこの本は一定の役割を果たしたようである。

井上はハイネを、基本的には、ブルジョワ民主主義の立場に立っており、したがって彼の戦いはプロシャを中心としたドイツの封建的な勢力を対象としたもので、もしかれが革命を目指したとしても、それはマルクスが主張するような労働者階級の革命ではなく、あくまでもブルジョワ民主主義革命だったというふうに位置付けている。そこはマルクスとは違うところだ。ハイネは自分より21歳も年下のマルクスと腹蔵なく付き合ったらしいが、それはマルクスの革命的な情熱が気に入ったのであって、マルクスの思想そのものを理解していたわけではなかった。ハイネがマルクスと出会ったのは、1843年のことで、マルクスはまだ25歳の若さであり、共産党宣言のアイデアも湧いておらず、したがってコミュニズムの思想を確立していたわけでもなかった。その頃のマルクスは、ヘーゲルの尻尾をつけたままで、プロシャの封建主義制度を攻撃することに集中していた。そうした封建主義との戦いということでは、ハイネはマルクスを同士として受け取る理由があったわけだ。しかし、後年になって、マルクスらがコミュニズムの運動を大胆に展開するようになると、ハイネはついていけないものを感じたに違いない。ハイネは、所詮ブルジョワ民主主義者であって、コミュニストにはなれなかった。むしろ労働者階級の指導性を強く否定したのである。

ハイネの三十代後半の著作に「ドイツ古典哲学の本質」がある。これはヘーゲル主義の立場からドイツ古典哲学を評価したものだが、基本的には、ブルジョワ民主主義の立場からドイツの古典哲学を批判したものだ。その批判のスタイルは、マルクスのドイツ哲学批判と通じるものがある。それは両者ともにヘーゲルの尻尾をつけていることに基く。この本を書いたとき、ハイネはまだマルクスを知らなかったが、両者はヘーゲルの尻尾を通じてつながっていたのである。それを簡単に言うと、絶体精神としての世界精神が世界を導くというものだったわけだが、それはハイネにとってはブルジョワ民主主義であり、マルクスにとってはコミュニズムになるはずのものであった。

そういうわけで、ハイネのブルジョワ民主主義者としての側面に、この本は焦点をあてている。ハイネのブルジョワ民主主義革命家としての情熱がもっとも高揚したのは、1830年に七月革命の報に接した時だ。七月革命は、古い絶対主義王政を倒してブルジョワジーがヘゲモニーを握った革命としてハイネは捉えた。そこに遅れたドイツが目指すべき手本を認めた。その後ハイネはフランスに渡り、フランスの自由な雰囲気を享受しながら祖国ドイツに民主主義への動きを期待したのだった。祖国ドイツという言い方をしたが、ハイネはもともとユダヤ人である。当時のドイツはアンチセミチズムが強かったらしく、ハイネはユダヤ人として迫害を感じたこともある。にもかかわらずハイネは、自分をユダヤ人としてよりもドイツ人として意識していたというのが井上の見立てである。ハイネは成人するとすぐ、自分の意思でキリスト教に改宗している。それはドイツ人として自分をアイデンティファイしたかったことの現れだと井上は言いたいようである。マルクスもキリスト教徒に改宗したが、かれには強い宗教意識はなかったし、またドイツ人としてのこだわりもなかった。マルクスは人類史上でももっともユニークなコスモポリタンの一人だったのである。

ハイネは、七月革命には熱狂的な支持を表明したが、1848年の二月革命にはほとんど反応しなかった。むしろ嫌悪感を抱いたようだ。それは粗雑なプロレタリアが政治権力を握ると文明を破壊するのではないかとの恐れから発していた。ハイネは58年しか生きず、また50歳頃を境に覇気を失ったので、晩年のハイネにはかつての革命家らしい情熱は感じられないと井上は見ている。ハイネにはまた、人間的に弱いところがあり(たとえば金への執着が強いこと)、そういう欠点が晩年になってますます顕在化したとも井上は言っている。ハイネは年をとるに従い、次第に世界史の動きから取り残されていったと言いたいようである。

ハイネには、政治評論家としての側面とともに、詩人としての側面もある。文学史的にはそっちのほうが重視されている。ハイネの詩は抒情的に愛を歌い上げることが持ち味だが、その一方で、社会の矛盾を鋭く告発する調子のものもある。井上が重視するのはそうした告発調の詩である。ハイネの試作は三つの時期に大別される。「歌の本」に代表される若いころのもの、「新詩集」に代表される壮年期のもの、そして「ロマンツェロ」に代表される晩年。このうち井上は、「新詩集」に収められた「時事詩」を高く評価する。それらの時事詩は社会の矛盾を鋭く告発したものだが、その告発にハイネ独得の味わいがあると言うのである。ハイネは晩年までそうした告発を忘れず、「ロマンツェロ」の中にも多くの告発詩が収められている。

ところで、ハイネの愛の歌にインスピレーションをもたらしたのは、ハイネが実際に愛した女性たちだった。ハイネは大変な女好きで、さまざまな女性たちと愛をかわした。その中には玄人の娼婦もいたらしい。そんなハイネは生涯に一人の女性とだけ結婚した。その女性はわがままで浪費家であり、色々な面でハイネを苦しめたのであったが、ハイネはなぜかこの問題の多い妻を生涯愛し続けたらしい。

ハイネは34歳でパリにわたり、58歳で死ぬまでパリを根拠地とした。死んだあとはモンマルトルの墓地に葬られた。だが生涯を通じてドイツ人であることにこだわり続けた。だからハイネを愛国主義の詩人とたたえる見方もある。井上もそのような見方をしている。そこはハイネがマルクスと一番違うところだ。当のドイツ人をはじめ、世界中のどんな人でも、マルクスをドイツの愛国者と見る者はない。


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