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オスマン帝国とアラブ・ナショナリズム


中東からモロッコにかけて広がる広大なアラブ世界は、16世紀以降オスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国はトルコ人の国家ではあったが、基本的にはイスラーム国家としての色彩が強かったので、イスラームという共通の絆に結ばれる形で、トルコ人とアラブ人とはするどく対立する事態にはならなかった。宗教が前面に出た結果、民族性が薄まっていたといえる。

ところが19世紀半ばになると、イギリスやフランスがアラブ世界に進出してくる。イギリスはエジプトを支配するようになるし、フランスはアルジェリアとモロッコを植民地にした。これを西洋の衝撃というが、この衝撃がアラブ世界のナショナリズムを刺激した。それまでの宗教の共通性に基く平和共存の時代から、民族性が強く意識される時代へと移行していくわけである。

ナショナリズムは、アラブ人の世界のみではなく、トルコ人の間でも高まった。トルコ人のナショナリズムは、西洋の衝撃に対してトルコ人の民族としての自立性を主張するものだったが、アラブ人のナショナリズムには、西洋の衝撃に向かう側面と、トルコ人支配からの開放を目指す側面との両面があった。

トルコ人のナショナリズムはさておいて、アラブ人のナショナリズムについて見ておこう。

アラブ人のナショナリズムには、大きくわけて二つの流れがあった。一つは汎イスラーム主義の流れであり、一つはアラブ人の民族意識を強調する流れである。汎イスラーム主義は、ムスリムの連帯を説くもので、ジャマール・アッディーン・アル・アフガーニーによって主唱され、ムハンムド・アブドゥフを経て、ラシード・リダーに引き継がれた。彼らの特徴は、オスマン帝国によるアラブ支配に抵抗する一方で、著しく権威を失っていたイスラーム法の復興をはかるなど、イスラーム改革を強調したことだった。トルコを除外したアラブ世界を、イスラームによって団結させようとする立場である。

もう一つの流れは、イスラームではなく、アラブ人という民族性を強調したもので、アラブ人の民族としての連帯と統一を追求したものだった。当時のアラブ人には、イスラーム教徒のほかにキリスト教徒やユダヤ教徒もいたのであるが、この流れはそうした宗教的な差異を超えて、アラブ人としての民族性を重視したものであった。宗教や地縁よりも血を重んじる立場といってもよい。

この二つの流れはしかし、互いに厳しく排除しあったわけではない。汎イスラーム主義者もアラブ人の団結を強調したし、アラブ民族主義者もイスラームのアラブ民族団結にとっての意義を強調することがあった。ただ、アラブ民族主義は、キリスト教やユダヤ教に比較的寛容であったと言える。アラブ民族主義の主唱者として有名なブトルス・アリ・ブスターニーはレバノンのマロン派キリスト教徒であった。

ともあれ、このようにアラブ世界で民族意識が高まっていた時期に、シオニズムの波がパレスチナに押し寄せたわけである。シオニズムはユダヤ人の民族主義運動だったが、それが高まりつつあったアラブ人の民族主義的動きとぶつかるようになるのは避けがたいことだった。それらに青年トルコが中心になって高まっていたトルコ人の民族主義的運動がからまって、アラブ世界には新たな紛争の種がまかれたのである。

アラブ・ナショナリズムの動きを、一応以上のように整理してみたが、このように書くと、アラブ世界には強固な民族意識が生まれたという印象を与えかねないが、実態としては、アラブ人が民族として強固な連帯と統一の動きに成功したとは決していえない。アラブ世界は、多くの部族に分断され、互いに反目しあっていた。そのありさまはイギリス映画「アラビアのロレンス」の描いたとおりで、とてもアラブとしての一体性を指摘できるような状態ではなかったのである。それが、ユダヤ人には幸いした。もしアラブ人が強固に団結していたら、ユダヤ人がパレスチナに基盤を据えることはできなかったに違いない。



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