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第一次世界大戦とバルフォア宣言


第一次世界大戦は、パレスチナを含むアラブ世界に甚大な影響を及ぼした。この地域を支配していたオスマン・トルコはドイツ、オーストリアの側について、イギリスやフランスと戦ったのであったが、その戦いに敗れたために、広大な支配圏を失い、その後を英仏両国が埋めることになった。アラブ世界は、オスマン帝国の支配から解放されて、英仏領国の帝国主義的侵略の対象とされたのである。したがって、アラブ世界は世紀の転換を経験することとなったわけだが、なかでもパレスチナ地域の被った転換はもっとも大きなインパクトをもった。

英仏両国は、戦後オスマン・トルコにかわってこの地域を支配することを目論んでいた。その目論見を確認したものが1916年5月の「サイクス・ピコ協定」と呼ばれる密約である。これは戦後のオスマン・トルコの分割について、イギリス、フランス、ロシアの間で交わされた密約で、シリア北部とアナトリア南部をフランスのものとし、シリア南部(パレスチナとトランス・ヨルダン)と南メソポタミア(イラクの大部分)をイギリスのものとし、黒海東南沿岸及びボスポラス、ダーダネルス両海峡をロシアの勢力圏にするという内容だった。実際、戦後のオスマン・トルコ処分は、社会主義革命のおきたロシアを除いて、英仏間でこのとおり分割されたのである。

英仏としては、まず戦争に勝たなくてはならない。そこで色々と外交的な策略を弄するわけだが、とくにイギリスにおいては、アラブ人を味方につけて、オスマン・トルコに反乱させる作戦をとった。イギリスは、メッカのシャリフであったフサイン・イブン・アリーに対して、イギリスの側に立ってオスマン・トルコに反乱すれば、イギリスは(アラブ独立を含め)最大限の支援をすると約束した(フサイン・マクマホン協定)。フサインはその約束を信じて反乱に立ちあがり、南はアデンから北はアレッポに及ぶ壮大なアラブ独立国家の樹立を夢見たのであった。だが、その夢は、サイクス・ピコ協定と真っ向から抵触するものであり、実現することはなかった。わずかに戦後の一時期、フセインの息子のファイサルがシリアの地に王国を樹立したに過ぎなかった(シリア・アラブ王国)。なお、フサインによるオスマン・トルコへの反乱と、それへのイギリスのかかわりについては、映画「アラビアのロレンス」が描いたところである。

サイクス・ピコ協定とフサイン・マクマホン協定とは、互いに相いれない内容を持っていたが、イギリスはこのほかにも、問題のある行動をとった。世に「バルフォア宣言」(1917年11月)と呼ばれるものを打ち出したのである。これは、パレスチナの地にユダヤ人国家の樹立を認めるというもので、アラブ側の利害に真正面から対立するものであった。この宣言は後に、パレスチナの委任統治に関する国際連盟規約にも盛り込まれ、以後パレスチナ問題に深刻な影響を及ぼす。今日にまで及ぶイスラエルとアラブ世界との対立の火種を持ち込んだのである。

「バルフォア宣言」の文言は極めて短いものだった。本文は以下のとおりである。「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の努力を払うものとする。ただし、これは、パレスチナに在住する非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位を、害するものではないことが明白に了解されるものとする」

これはパレスチナの地にユダヤ人国家を樹立することにイギリスは協力するという内容だが、文面をよく読むと、パレスチナの土地の主人はユダヤ人であり、そのほかの住人は非ユダヤ人として、ユダヤ人の統治の対象となるという意味を含んでいる。ところが、当時の実態としては、パレスチナにおけるユダヤ人の人口比率は一割以下であり、その少数民族たるユダヤ人が土地の支配者となり、非ユダヤ人たるアラブ人(パレスチナ人)を支配するという構図になっている。従来は、パレスチナ地域では、アラブ人とユダヤ人とは、ほぼ対等の立場で平和的に共存していた。そこへ民族の分断を持ち込み、しかも少数民族のユダヤ人に多数派のアラブ人を支配させようとすることは、以後民族間の深刻な分断と対立を予想させるものであった。事実歴史はそういう方向に動いて来たのである。

イギリスはなぜ、「バルフォア宣言」のような問題の多い行動をとったのか。色々と臆説が流れていて、定説はない。もっともらしい説はいくつかある。その一つは、バルフォアはキリスト教シオニストであり、イギリスのユダヤ人シオニストに影響されたというものである。後にイスラエルの初代大統領となるハイム・ヴァイツマンが、自分が住んでいた選挙区にバルフォアが属していることを利用して近づき、バルフォアを洗脳して自分の言い分を聞かせたというのである。

「バルフォア宣言」を最終的に裁可したのは当時の首相ロイド=ジョージだが、ロイド=ジョージは反ユダヤ主義者として有名だった。その彼が「バルフォア宣言」に同意したのは、パレスチナにユダヤ人国家を作らせて、そこにイギリスのユダヤ人どもを追放しようと考えていたからだ、と解釈する説もある。この説をめぐっては、パレスチナにおけるユダヤ人国家の樹立は、ヨーロッパ中の反ユダヤ主義に口実を与えることになるとして、一部の影響力あるユダヤ人たちが反対したということがあった。パレスチナがユダヤ人の国になれば、ヨーロッパのユダヤ人はみな外国人とみなされて、パレスチナに追放されることになりかねないと心配したわけである。

ともあれイギリスは、「サイクス・ピコ協定」、「フサイン・マクマホン協定」、「バルファオ宣言」という、相互に矛盾・対立する内容をもった外交文書を相次いで出したわけである。こうしたイギリスのやり方は(歴史家から)大きな批判を受け、「イギリスの三枚舌」と呼ばれるようになった。



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