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第二次中東戦争:イスラエルとパレスチナ


第一次中東戦争によって獲得した占領地を、イスラエルは死守しようとした。そしてその試みは成功した。終戦の翌年、1949年5月にイスラエルは国連に加入するが、それはイスラエルによるパレスチナにおける占領を追認する効果をもった。パレスチナ難民は、国連に見放された形になったわけである。これに勇気づけられたイスラエルは、更なる領土拡大に向けて野心を高めていくことになる。

その野心が、1956年の第二次中東戦争を招くわけだが、この戦争は単にイスラエルとアラブとの間の戦争ではなかった。基本的には、スエズ運河の利権をめぐるエジプトと英仏の争いに、イスラエルが悪乗りしたというものだった。イスラエルはその結果シナイ半島を占領したが、それを領土に併合するまでには至らなかった。国際情勢がそう簡単には許さなかったからである。

イスラエル建国とそれに伴う第一次中東戦争後における、中東をめぐる国際情勢は、だいたい次のようなものだった。まず、アラブ諸国内でナショナリズムの高まりがあった。特にエジプトでその波が高まった。その波に乗るような形でナセルによる革命が起きた。ナセルはイギリスからのエジプトの完全自立を目指して、ナイル川にアスワンハイダムを建設しようとしたり、またスエズ運河の国有化を目指した。スエズ運河の国有化は、運河に利権を持つ英仏との対立を深刻化させた。その対立が第二次中東戦争につながるのである。イスラエルはそれに乗ずる形で参戦し、シナイ半島を占領するのである。

エジプト以外の国では、それぞれの事情に応じてナショナリズムの高まりがあった。そういう中でイスラエルを敵視する感情が高まり、アラブ諸国の多くでユダヤ人の追放が行われた。特にイラクの場合には、11万人いたユダヤ人が財産を没収されて国外追放され、イスラエルへの移住を余儀なくされた。これに限らず、アラブ諸国からイスラエルに移住したユダヤ人は結構な数にのぼったのである。

一方、中東をめぐる大国の思惑についていえば、英仏はスエズ運河に巨大な利権を持っていたほか、旧宗主国としての立場からこの地域には強い利害をもっていたので、なにかと介入することとなった。特にイギリスは、石油に関する利害もあり、中東情勢に独自の立場からかかわった。その成果がバグダッド条約の締結である。これはイギリスが仲介する形で、イラン、イラク、トルコ、パキスタンが相互防衛を目的に締結した条約で、中東地域でのイギリスの影響力を温存させようとする意義も持たされていた。

一方アメリカ政府は、中東問題にあまり深入りしようとはしなかった。アメリカが中東問題に深入りするようになるのは第三次中東戦争以後のことである。それまでのアメリカは、冷戦対策の一環として中東問題にかかわっていた。それは中東全域をソ連の影響から切り離そうとするものであり、したがってアラブ諸国により配慮したものだった。しかしアメリカは基本的には中東に深入りするつもりはなかった。アラブ諸国もイスラエルもソ連に接近する様子は見せず、その分安心していられたからだ。

こういう情勢のなかで、イスラエルは、国連による国家としてのお墨付きは得られたものの、アラブ諸国の敵意を前にして、孤立感を強く抱くようになった。安全保障のためには強大な軍備が必要だったが、それをイスラエルは大国に依存しなければならなかった。当時のイスラエルには軍需産業など存在せず、したがって外国から武器を持ち込むほかなかったからである。イスラエルはそれをアメリカに期待した。イギリスには、これまでの反英感情もあって期待することはなかった。だがそのアメリカが武器の提供をしてくれなかったので、フランスに接近した。フランスはイスラエルの要求を受け入れた。そこでイスラエルとフランスとは特別の結びつきを築くことになり、それが第二次中東戦争へのイスラエルの参戦につながるのである。イスラエルはフランスがエジプトと戦争を始めるにあたって、フランス側に味方する形で参戦したわけである。

当時のイスラエルの指導部は、武闘派と穏健派とに分かれていた。ベングリオン率いる武闘派は、武力を以てイスラエルの独立を確保しようとする政策を掲げ、アラブ諸国を軍事的に叩き潰すことを主張した。一方、シャレット率いる穏健派は、国際協調を重視し、アラブ諸国との和平の促進を目指した。この対立は武闘派の勝利に終わり、それが第二次中東戦争へのイスラエルの参戦という結果につながったわけである。ベングリオンとしては、アラブ諸国の戦争準備の体制が整う前に、先制攻撃をしかけるつもりで、度重なる挑発を行った。1955年2月には、ガザのエジプト軍基地を攻撃し、38人のエジプト兵を殺害した。そうした好戦的な姿勢の仕上げとして、第二次中東戦争への参戦になったわけである。

なお、イスラエルが核兵器の開発に着手したのは、この時期である。その開発にはフランスが大きくかかわった。それは、この時期におけるイスラエル・フランス関係のもたらした遺産というべきだろう。イスラエルが核兵器の開発に踏み切ったのは、国家の存続に危機感を抱いたためだ。アラブ諸国は何度でも戦争に負けることができるが、イスラエルにとっては、一度戦争に負けたら終わりだという強い危機意識があった。その危機意識が核兵器の誘惑を強く引きよせたのである。

第二次中東戦争は、アメリカの介入によって終結した。アメリカは宿敵であるソ連と協議しながら、国連において、英仏イスラエル三か国の即時撤退を決議させた。その決議に屈する形で、英仏は撤退した。事実上の敗戦であった。イスラエルも又撤退には応じたが、そのままシナイ半島の占領を続け、完全に撤退したのは翌年の3月だった。



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