知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




第四次中東戦争:イスラエルとパレスチナ


1973年10月に起きた第四次中東戦争は、従来の中東戦争とは様相を異にした。というのもこの戦争は、エジプトが(ほぼ)単独でイスラエルに仕掛けた戦争だったからだ(シリアも協力したが)。エジプトがイスラエルに戦争を仕掛けた理由は、シナイ半島の奪還にあった。第三次中東戦争以後シナイ半島を占領されていたエジプトは、イスラエルとの戦争に勝つことでそれを取り戻そうとしたのである。この戦争は、結局どちらが勝ったとも言えない結果に終わったが、エジプトは初戦で勝利し、その勢いを借りる形で、最終的にはシナイ半島を取り戻すのである(1979年)。

この政策を、ナセルに代わって大統領になったサダトが追求した。サダトはナセルの社会主義路線を放棄して資本主義への転換を進め、それと並行する形でソ連との関係を清算し、アメリカなど西側諸国との関係を強化した。また、イスラエルとの関係については、対立ではなく共存の可能性を探るようになった。だが、イスラエルによるシナイ半島の占領は、そうした可能性の実現を阻むものであった。そこでサダトは、まずシナイ半島の奪還を優先させることとし、それを実現するための方便として、イスラエルに戦争を仕掛けたわけである。

この戦争では、エジプトはイスラエルのお家芸である奇襲作戦をとった。それが功を奏して、イスラエルははじめて(緒戦で)敗北を喫したのである。エジプト軍にシリア軍も呼応して、ゴラン高原の奪回を目指した。しかし戦争が進行するにつれ次第にイスラエルが優位に立っていった。10月に国連の仲介によって停戦が成立した際には、イスラエルはエジプトとシリアに侵攻する勢いだった。ともあれ、この戦争では、イスラエルの不敗神話が敗れることとなった。

アラブ側はこの戦争中、イスラエルと国交を結ぶ国に対して、石油を禁輸する措置をとった。いわゆる石油ショックである。日本もその対象になった。それ以来日本はアラブの産油国に対して、慎重な外交政策に努めるようになった。日本は今に至るまで、アラブ諸国との関係が良好といえるが、それは石油ショックの教訓が生きているからなのである。

一方、アラファト率いるPLOは、次第にパレスチナ代表としての地歩を固めていった。1974年10月のアラブ首脳会議で、パレスチナの唯一正当な代表と認められ、国連においてもパレスチナの唯一正当な代表と認められて、パレスチナ人の民族自決権や独立国樹立権が認められた。世界でパレスチナを承認する国の数が、イスラエルのそれを上回ったほどである。

アラファトは1974年11月の国連総会で演説し、次のように語った。革命家とテロリストの相違は、何のために戦っているかにある。自分自身の土地を、侵入者から自由に開放するために戦っているものは、決してテロリストとは呼べない。でなければ、イギリスからの開放を目的に戦ったアメリカ人もテロリストということになってしまう。またナチスと戦ったレジスタンスもテロリストということになってしまう、と。

戦後のイスラエルでは、緒戦とはいえ初めて負けたことのショックもあって、保守派の勢力が高まって行った。そういう中で宗教シオニズムと呼ばれる勢力の力が強まった。宗教シオニズムとは、膨張主義的侵略をユダヤ教によって正当化するものである。かれらは神によって約束された土地を略取するのは当然だという理屈から、占領地への入植とか、アラブ人への抑圧を正当化したのである。1977年にベギンが首相になると、そうした傾向が本格化する。ベギン以降のイスラエルは、基本的には強硬な対アラブ政策をとっていくのである。

そのベギンがエジプトとの間で平和条約を結んだのは、アラブ諸国の団結にくさびを打つ狙いもあったに違いない。実際、エジプトはシナイ半島の返還を条件にイスラエルと平和条約を結んで以来、パレスチナ問題に積極的にかかわることをしなくなったのである。それはイスラエルにとって非常に都合のよいことであった。もっともこの平和条約は、サダトには高くついたと言われる。というのもサダトのやり方に不満を持ったエジプト軍人たちによって、第四次中東戦争の勝利八周年記念式典の会場で暗殺されてしまったからである。

ともあれ、エジプトとイスラエルの和解については、アメリカの、というよりキッシンジャーの役割が大きかった。キッシンジャーはユダヤ系のアメリカ人だが、冷徹な現実主義者であった。その現実主義の立場を駆使して、アメリカのイスラエルへのコミットメントを深めていったといわれる。今日に至るアメリカのイスラエル贔屓の基礎を、キッシンジャーが作ったという説もある。キッシンジャーの基本方針は、イスラエル国家の存続であり、それを認めないアラブ諸国に対立するというものだった。

PLOにしても、従来のようにイスラエル国家の存続を認めない立場では何も獲得出来ないと考えるようになり、とりあえずは1967年以前の状態を回復するのが先決だとする政策に次第に方向転換を図るようになった。国連決議でもパレスチナ人の独立国樹立権が認められているのだから、その権利の実現としての、ヨルダン川西岸及びガザ地域でのパレスチナ国家樹立を追求しようとする方向へと次第に舵を切り替えていくのである。その末に1993年のオスロ合意がある。



HOME イスラエルとパレスチナ次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである