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ベギンの登場とエジプトのイスラエル承認


イスラエルは建国以来労働党が政権を担ってきた。労働党はヨーロッパからやってきたシオニストの流れで、社会主義的な傾向が強かった。そんなかれらを労働シオニストと呼ぶことがある。かれらについての国際的なイメージとしては、キブツを拠点に集団主義的な生活をし、子どもも共同で育てるというものだった。イスラエルのユダヤ人が非常に集団主義的で、したがって戦争に強いのも、あながち軍事力ばかりでなく、かれらの集団への帰属意識が高いことにも理由がある。

そんなイスラエルに異変が起きた。1977年にメナヘム・ベギンが首相になったのだ。ベギンは右派(タカ派)の連合勢力リクードを率いていた。リクードは修正主義シオニストとも呼ばれ、ユダヤ人国家の拡大を目指していた。1967年に占領したヨルダン川西岸やガザ地域についても、それはもともと神がユダヤ人に与えた土地なのだから、戦争によって占領したわけではなく、本来の主である自分たちユダヤ人が、不当な占拠者であるアラブ人たちから解放したのだというのが、修正シオニズムの考えであった。それのみならず、ヨルダンも又神がユダヤ人に与えた土地だと主張してはばからないことがあった。そんな修正主義シオニストのベギンがイスラエルの首相になったわけだから、パレスチナ問題は新たな局面に入ったと言ってよかった。

ベギンは、建国以前にはユダヤ人に対して抑圧的なイギリスに向ってテロ攻撃をしかけたり、建国の動乱に際してはディール・ヤシーン村の虐殺を讃美したりした。また国連の分割決議案にも反対した。パレスチナ全体がユダヤ人の土地だという立場からである。そんなベギンを首相の座に据えたのは、イスラエル社会の変貌の影響だった。

建国直後のイスラエルのユダヤ人は、ヨーロッパからやってきたアシュケナージムと呼ばれる人々が中心だった。アシュケナージムはもともとドイツ系ユダヤ人をさしていたが、ヨーロッパ全域出身のユダヤ人をさしていうようにもなった。かれらは比較的裕福で、教育水準も高かった。イスラエル国家とアラブ世界との関係については、できれば平和的な共存をめざした。もっともアラブ側がそれを拒絶したので、かれらとしては戦わざるを得ないという意識が強かったのであるが。

ところが、まずイスラム世界から追放されたユダヤ人がイスラエルに押しかけてくるようになった。とくに第三次中東戦争以後、アラブ諸国でのユダヤ人迫害が深刻化し、それを逃れるために短期間で80万人のユダヤ人がイスラエルにやってきたのである。これらのユダヤ人はセファルディムと呼ばれる。セファルディムはもともとスペインのユダヤ人をさしていたが、かれらがレコンキスタでスペインを追われると、北アフリカから中東のイスラム世界にかけて散らばった。それゆえ、中東各地のイスラム国家からイスラエルにやってきたユダヤ人たちもセファルディムと呼ばれる。

セファルディムはアシュケナージムと比べて所得も少なく、教育水準も低かった。またアシュケナージムが始めたシオニズムに対して忠誠心を持たなかった。自分たちの生活の向上が最大の関心事だった。とりあえずアシュケナージムに追いつき、できれば追い越すことが目標だった。二流国民から一流国民への上昇を願っていたといえる。ベギンはそうしたセファルディムの希望に応えるポーズをとった。それがかれを首相の地位に押し上げた原動力になったのである。

中東各地からイスラエルにやってきたセファルディムの人々はアラブ語を話していた。習俗的にもアラブ人と共通するものが多かった。そのセファルディムが人口の半分近くを占めるようになると、イスラエルのユダヤ人には、大きな分裂が起きるようになった。そこからイスラエル社会の変貌ということが目に付くようになったのである。

一方、アラブ世界に目を向けると、そこにも大きな変化が起きていた。それまでのアラブとイスラエルの関係は、エジプトが中心となってアラブ全体がイスラエルと対立するという構図だった。その対立が四次にわたる中東戦争を引き起こしたわけだが、どの戦争もエジプトが圧倒的な貢献をしてきた。ほかのアラブ諸国は、口先だけといっては言いすぎだが、ほとんどまともな役割を果たしていないのだ。そのエジプトが、アラブ世界の団結から抜け出す動きを見せたのである。

サダトは、イスラエルを抹殺することは不可能だとさとった。そこでイスラエルとの共存を目指す政策に舵を切り替えた。イスラエルの存在を認める代わりに、シナイ半島の返還を実現する、というのがサダトの当面の目標となった。かれはその目標を携えて1977年11月にイスラエルを訪問し、ベギンに向って平和条約の締結を呼びかけた。平和条約の締結は、相手国の存在を認めるものである。イスラエルの建国後はじめて、アラブ世界の一部とはいえ、イスラエル国家の存在を認める動きが出てきたわけである。

こうした動きを踏まえて、アメリカのカーター大統領が仲介に入った。その結果、「キャンプ・デーヴィッドの合意」が成立した。これはエジプト・イスラエル間の平和条約の締結と、パレスチナ人の自治についての規定からなっていた。この合意に基づいて、翌1979年にエジプト・イスラエル間に平和条約が結ばれた。これによって両国関係は正常化し、シナイ半島はエジプトに返還された。一方、パレスチナ人の自治については、ベギンはサボタージュした。ベギンはパレスチナ人の存在そのものを認めていないのであって、ましてや自治とか独立国家などナンセンスそのものだったのである。

イスラエルとの国交正常化によって、エジプトは対イスラエルのアラブ世界の団結から抜ける形になった。それによってアラブの団結は大きく毀損されることになった。そのことをほかのアラブ諸国は強く批判し、エジプトを事実上村八分の状態にした。まだ貧困だったエジプトにとって、豊かな産油国の援助が受けられなくなったのは打撃だったが、もはや道を引き返すことはできなかった。その後今日にいたるまで、エジプトはイスラエルとの平和共存をなによりも優先させるのである。もっともこれが、サダトへの憎しみを掻き立て、暗殺されることにつながったのであった。



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