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第一次インティファーダ:イスラエルとパレスチナ


1987年の12月に、ガザ地区で自然発生的に始まったパレスチナ人のイスラエルへの抵抗は、やがてヨルダン川西岸へも波及し、全占領地での全面的な抵抗運動へと発展していった。これをインティファーダという。インティファーダとは、アラビア語で蜂起とか反乱を意味する言葉で、大規模な民衆蜂起を意味するものとして使われている。

インティファーダが発生した原因は、長引く占領によって抑圧されてきたパレスチナ人の怒りが爆発したということだろう。それまでのイスラエル・パレスチナの関係にあって、パレスチナ人がイスラエルと直接に対峙するということはあまりなかった。そのためイスラエルの占領地支配は非常にやすくついたといわれるほどだ。実際に、インティファーダ以前には、西岸地域には500名ほどのイスラエル兵が配備されているばかりだったのである。

ところが、イスラエルの強権的なやり方への反感が高まる一方、エジプトはじめアラブ諸国がパレスチナ問題への関心を弱めたことでパレスチナ人の絶望感が深まり、それがイスラエルへの怒りを沸点まで高めたのである。

インティファーダの直接のきっかけは、1987年12月8日に、ガザでパレスチナ人の車にイスラエル軍のトラックが衝突し、パレスチナ人4人が死亡、7人が重傷を負ったという事件だが、それ以前にもイスラエル人によるパレスチナ人への暴行が続いており、パレスチナ人の怒りが高まっていたと指摘されている。その怒りにこの事件が火をつけて、爆発的な規模に発展したのである。

インティファーダの特徴は、石だけで強大な軍事力に立ち向かうということにあった。始めは男たちが石を持ってイスラエル軍に立ち向かい、男たちが倒れると子供や女たちが続いた。その姿がメディアを通じて世界中に拡散されると、イスラエルの暴力に対する批判が高まった。石を持った少年が強大な軍事力を持ったイスラエル軍に立ち向かう写真が、インティファーダを象徴するものとして国際的な注目を集めた。この写真は、ダヴィデとゴリアテの逸話を人々に思い出させた。旧約聖書のダヴィデはユダヤ人を代表していたわけだが、この写真はパレスチナ人の少年ダヴィデが、ユダヤ人であるゴリアテに立ち向かうと解釈されたのである。

インティファーダによるパレスチナ人の人的被害は、1987年12月の開始から1993年6月までの間で、死者1233人(うち16歳以下の子供324人)、負傷者12万9446人であった。こんなにも多くの被害者を出した原因は、イスラエル側の過酷な弾圧姿勢にあった。当時の国防相ラビンは「石を投げる者の手足を折れ」と命令した。その命令に従って、イスラエルのユダヤ兵は石を投げるパレスチナ人を容赦なく攻撃したのである。

だがイスラエルもさすがに手を焼かざるを得なかった。始めは自然発生的だった民衆蜂起は、次第に組織化されて来たし、PLOは現地での状況を国際世論に訴えるという方策をとった。その方策が効果を奏して、一時は忘れられかかっていたパレスチナ問題が、国際的な注目を集めるようになった。その国際世論の動きが、やがてオスロ合意につながっていくわけである。

その動きの最初の現われとして、1988年6月のアラブ首脳会議における、インティファーダへの経済支援とパレスチナ国家樹立への信認という動きがあった。また、その同年7月には、ヨルダンが西岸地区の主権を放棄した。これには色々な要因がからまっていたようだが、ヨルダンが主権を放棄したことで、西岸地区に政治的な空白が生まれた。その空白を埋めるようにして、PLOが西岸地区とガザにパレスチナ国家を樹立するという方針を掲げたのであった。それまでのPLOは、1948年のイスラエル建国によって奪われた土地を含めて、パレスチナ人の国家とすることを原則的方針としていたわけだが、それを大幅に譲歩して、1967年以前の状態に戻すことを目標とするように戦術返還したのである。

一方ガザ地区を中心にして、PLOに対抗する勢力としてハマースが生まれた。ハマースはあくまでもイスラエル建国によって奪われた土地の奪還にこだわった。つまりイスラエル国家の存在を認めないわけである。

ともあれ、インティファーダ開始からほぼ一年たった1988年11月に、西岸とガザ地区を領土とし、エルサレムを首都とするパレスチナ国家の樹立が宣言された。このパレスチナ国家を承認する国は119か国に及び、イスラエルを承認する国の数を上回った。これはアラファトにとっての外交成果であり、それをもたらしたのはインティファーダだった。ところがアラファトは折角手にした有利な状況を、あっさりと手放してしまった。PLOのイスラエル承認のほかに、テロの蜂起まで受け入れてしまったのである。テロの放棄は、パレスチナ人の対イスラエル抵抗運動の放棄を認めることである。そこまでしてアラファトが譲歩したのは、アメリカをパレスチナ問題に関与させたかったからだと言われる。アメリカは「キッシンジャーの三条件」という政策に縛られており、PLOがイスラエルを承認し、テロを放棄しない限り、交渉相手にはしないと言明しいていたのである。

そこまでしてアメリカの協力をあてにしたアラファトだが、1990年に海上からのテルアビブ攻撃未遂事件を起こして、アメリカから拒絶されてしまった。また同年8月のイラクによるクウェート侵攻をきっかけとして、翌年1月に勃発した湾岸戦争においては、PLOはイラクを支持した。そのため、イラクの敗戦で多くのものを失った。クウェートには多くのパレスチナ人が出稼ぎに来ていて、かれらの送金で難民の多くが暮らしていた。それが断たれたほか、サウディアラビアなどの産油国がPLOへの援助を打ち切った。そのためPLOは深刻な財政難に直面するのである。



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