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冷戦の終焉とオスロ合意:イスラエルとパレスチナ


1989年に東西冷戦が終焉する。ベルリンの壁が崩壊し、東欧の社会主義政権が相次いで倒れ、ゴルバチョフのソ連がペレストロイカを進め、西側との平和共存を目指した結果だ。ソ連が消えるのは1991年12月のことだが、それを待たずに冷戦から降りていたのである。

東西冷戦の終焉は、イスラエル・パレスチナ問題に大きな影響を及ぼすことになる。その影響はイスラエルに有利に働いた。ソ連も東欧諸国もイスラエルとの国交を断絶していたのだが、一斉にイスラエルを承認して国交を樹立した。東欧諸国はそれまで、アラブ側に肩入れし、パレスチナに対して同情的だったのだが、それがイスラエルに有利な方向に転換した。これはパレスチナにとっては、痛手といってよかった。

また、ソ連には200万とも300万ともいわれるユダヤ人が存在していたが、それらのユダヤ人のソ連を出る動きが表面化した。この動きはゴルバチョフのペレストロイカが本格化した1987年頃から始まったが、1990年には20万人近くに達するなど、大規模な動きになった。その理由としては、それまで外国への移住を厳しく制限していた政策が改められ、特にユダヤ人に対しては、外国移住の要件が緩和されたということもあった。それ以上に、ソ連の領域内で、ユダヤ人への迫害が高まったという事情もあった。ペレストロイカで言論の自由が大きく許容されるようになると、その自由を行使する形で、ユダヤ人への迫害が広範に起きたのである。

ソ連のユダヤ人が目ざしたのは、主にアメリカだった。アメリカはソ連のユダヤ人を政治的な難民として受け入れた。イスラエルとしては、これらのユダヤ人をイスラエルに受け入れたかった。人口を増やして、国力を強めたいと考えたからだ。そこでイスラエルはアメリカに働きかけて、ソ連からの移住ユダヤ人をイスラエルに向かわせることを目指した。アメリカのユダヤ・ロビーの協力もあって、アメリカの移民法が改正され、ソ連からの移住ユダヤ人が自動的に政治難民と認定されることはなくなり、その結果、アメリカへの移住が困難になった。そこでアメリカへ行けないユダヤ人が、大挙してイスラエルにやってくるようになったというわけである。

イスラエルは、ソ連からやってきたユダヤ人のために、占領地に入植地を作って、そこに居住させた。これが占領地の返還問題を非常に複雑にさせた。入植が既成事実化すると、その返還は困難になる道理だからである。第一次インティファーダが1987年に勃発し、やがて全面的に拡大したことの背景の一つとして、この入植問題も大きく働いているのである。

冷戦の終焉を象徴するような出来事として、米ソ共同でのイスラエル・パレスチナ問題解決への動きがあった。これは父ブッシュのイニシャティブによるもので、イスラエルの占領地からの引き揚げと、アラブ諸国によるイスラエル国家の承認を骨格としたものだった。当然パレスチナ問題の解決も含まれるはずだったが、パレスチナを実質的に代表しているPLOの参加が認められないばかりか、当事者としての扱いも受けられなかった。パレスチナ代表は、ヨルダン代表の一部として参加でききただけであった。それでもパレスチナ人を代表して意見を述べる機会は得られたわけである。

スペインのマドリードを会場にしたことで「マドリード会議」と呼ばれるこの和平交渉は、1991年10月に開始されたが、結果としてははかばかしい成果は得られなかった。イスラエル側が、占領地や東エルサレムの返還に応じる気持ちがなく、入植地の撤収にも難色を示したためだ。

イスラエル・パレスチナ関係が劇的な転換を見せるのは、1992年のイスラエルの選挙の結果、労働党が勝利して、ラビンが首相についたことによる。労働党を勝たせたのは、ソ連から来たユダヤ人だと言われる。彼らは当初リクード支持だと見られていた。ソ連の社会主義体制に反感を持ち、その社会主義と親和的な政策を掲げる労働党よりは、民族主義的なリクードのほうに親近感を持つと思われたからだ。ところが彼らの票の大部分が労働党に流れた。シオニズムとはほとんど無縁なソ連からのユダヤ人にとっては、ラビンの主張する和平のほうが望ましく思えたのであろう。

ラビンがイスラエルの首相になったのは、1992年7月のことだが、それ以前の5月頃からイスラエルとパレスチナとの間で秘密交渉がなされていた。マドリード会議でほとんど成果が出せなかったので、両者間で直接解決しようという動きにつながったのだと思うが、政治的な思惑を含めて、詳細なことはわからない。わかっているのは、1993年9月13日に、ラビンとアラファトの間でオスロ合意に基づく「パレスチナ暫定自治協定」共同宣言が出されたことだ。その宣言は、この年にアメリカ大統領に就任したクリントンの仲介という形でワシントンでなされたのであるが、それに要した交渉の席には、アメリカは全くと言ってよいほど参加しなかった。あくまでもイスラエルとパレスチナの間の直接の交渉によって進められたのである。パレスチナ側では、アラファトが殆ど独断的に判断し、ガザのパレスチナ人組織さえも詳細を知らされていなかった。

ラビンとアラファトにノーベル平和賞をもたらしたこの宣言は、次のような内容からなっていた。
1 イスラエル政府とパレスチナ人代表は相互に承認する
2 五年を超えない暫定期間内に、イスラエルはガザ地区とジェリコから撤退し、その地区でのパレスチナ人による自治を確立する。また最終的地位の交渉は、暫定期間の開始後二年以内に始まる
3 最終的地位に関する交渉には、エルサレム、難民、入植地、国境、隣国との関係など相互に利害のある問題が含まれる
4 イスラエル軍撤退後も、イスラエルは国防及び入植地とイスラエル国民の治安・公共秩序の維持に責任を負う

一読して、パレスチナ側が大幅に譲歩したということがわかる。まず返還される土地がガザとジェリコに限定されており、西岸の大部分とエルサレムが除かれていること。そのガザとジェリコについても、イスラエルの圧倒的な権益が保証されたままであること、などである。それ以外の懸案は、最終的地位の交渉として棚上げされたわけで、それについて実現するという保証は一切ない。

この宣言についてラビン自身は1993年11月に次のように発言している。「エルサレムは統一されたままとし、永久に統一状態が続く。占領地の入植地はそのまますべて残す。イスラエルは入植地の安全について責任を負う」。つまり将来にわたってイスラエルは、既存の入植地を渡さないといっているわけである。これは、1967年以後の占領地の全面返還とパレスチナ独立国家建設というPLOの基本方針とも一致しない、きわめて片務的な条約といってよい。

それゆえ、パレスチナ内部から強い反対が出たのは無論、イスラエル国内からも反対が出た。ラビンはその反対勢力によって、1995年11月に暗殺されてしまう。また1996年にリクードのネタニャフが首相に返り咲くと、この合意そのものを無視するようになった。



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