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エチオピアのユダヤ人:イスラエルとパレスチナ


イスラエルの建国時点(1948年)での人口(非ユダヤ人を含む)は約65万人だったが、1990年代半ばには400万人を超えた。その大部分は海外からの移入である。イスラエルは国力の増強という目的もあって、世界中に存在するユダヤ人を積極的に受け入れた。イスラエルにやってきたユダヤ人の多くは、もといた国での迫害を逃れるためにやってきたのだった。1967年の第三次中東戦争以降アラブ諸国からやってきたユダヤ人や、1980年代末以降にソ連からやってきたユダヤ人はその典型だった。

そうした海外からの移入ユダヤ人のなかでユニークなのがエチオピアのユダヤ人である。かれらは黒人なのだが、ユダヤ教を信仰していることで、イスラエルのセファルディム系のチーフ・ラビによって1973年にユダヤ人と認定されていた。こうしたユダヤ教徒は、その存在を紀元前後に遡るといわれる。それ以来かれらはユダヤ教を信じ続けてきたのである。かれらは、エチオピアでは少数派で、ファラシャ(異邦人)と呼ばれ差別されてきたが、自分自身のことをベタ・イスラエルと呼んでいる。

エチオピアのユダヤ人のイスラエル移住は、1984年以降本格化した。その頃エチオピアで大規模な飢饉が発生し、ユダヤ教徒も深刻な状況に陥った。そこでイスラエル政府は、かれらユダヤ教徒をイスラエルに空輸し、イスラエル国民として迎える政策をとった。その政策の実行はモーゼ作戦と呼ばれ、数千人のベタ・イスラエルがイスラエルに移住した。

その後、1991年にはソロモン作戦が実行され、一万四千人のベタ・イスラエルがイスラエルに移住した。この作戦は、エチオピアの政情不安を踏まえたものだった。この両作戦以外によるイスラエルへの移住者も多く、2015年時点でのイスラエル国内のベタ・イスラエルの人口は十三万五千人にのぼる。

イスラエルはユダヤ人国家とはいえ、移民から成り立つ社会であり、さまざまな文化的背景をもった人々の寄せ集めである。それゆえイスラエル政府は、国民の統合にもっとも気をくばった。徴兵義務は国民の一体感を高める方策としての意義も持たされている。イスラエルにおいては、徴兵に応じることが、イスラエル国民としての誇りにもなっているといわれる。アラブ系の市民や超正統派ユダヤ教徒は徴兵義務を負っていない。アラブ系はともかく、超正統派ユダヤ教徒がなぜ徴兵から除外されているのか、なかなか複雑な事情があるようである。

ベタ・イスラエルも当然のこととして徴兵義務を課された。しかし彼らは、イスラエル国民としての義務は果たしたが、それに相応しい処遇は受けなかった。厳しい差別に直面したのである。そうした差別がもとで、ベタ・イスラエルによる暴動騒ぎも起こっている。1996年には、ベタ・イスラエルの多くがエイズ・ウィルス感染の疑いがあるとの理由で、献血した血液を廃棄されたことがあったが、それがきっかけで、大規模なデモが起きた。デモ参加者は、「イスラエルは白人国家か?」と叫んだという。

2015年には、ベタ・イスラエルの若者が警官から暴行を受けたことがきっかけで、大規模な暴動が起きた。イスラエルでは、警官による市民への暴行は日常化しており、それらはおもにパレスチナ人などアラブ系に向けられているのであるが、ベタ・イスラエルもまたアラブ系なみの扱いを受けているということか。暴行もさることながら、ひどい就職難など、ベタ・イスラエルの置かれている境遇は深刻なようである。

2005年の映画「約束の旅路」は、モーゼ作戦をテーマにしたものだ。エチオピアのキリスト教徒の子供が、ユダヤ教徒を装ってイスラエル国内に入り、白人家庭の養子となって成長していく様を描いているのだが、その過程でさまざまな差別や迫害と戦うところが印象的である。ユダや人と言えば、自分自身が差別と迫害の被害者であることを常々公言してきた経緯があるが、この映画を見ると、自分より弱い者に対しては、自分が加害者になるという皮肉を感じさせる。



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